<前回より続く>
フーターズを初めて耳にしたのは、彼らにとって初めての全米トップ40ヒット「朝までダンス」がチャートを上って来たときだから、1985年9月頃であろう。
”やたら元気のいいアメリカン・ロックだなあ、でもフーターズってバンド名はどうなんだ?”とか思ったはずだ。それが、やはり景気のいい「デイ・バイ・デイ」、そして美しく儚い「果てしなき夢」と繰り出されるシングル・ヒットが粒ぞろいで、ガラリと雰囲気の異なる「オール・ユー・ゾンビーズ」のようにヴァラエティ豊かな作風にもぐんぐんと惹かれていった。アルバム『眠れぬ夜』で聴かれた、80年代にきっちり向き合った自分たちだけのアメリカのロックを産み出そうとする気概と才覚は、私をすぐに虜にした。
ペンシルヴァニア大学で71年に出会ったロブ・ハイマンとエリック・バジリアンがフィラデルフィアを拠点にプログレッシヴ・ロック・テイストのバンド=ベイビー・グランドを経て結成し、80年7月4日に初ギグを行なったのがフーターズだった。バンド名は、ドイツのホーナー社製メロディカ(簡易キーボード)=フーターをサウンドの特徴にしていたことからつけたそうだ。
ライヴの場で叩き上げ、83年にインディーズで第1作『AMORE』を発表したころ、ロブとエリックはベイビー・グランド時代からの友人リック・チャートフの依頼を受け、彼が制作中だったまだ無名の女性アーティストのファースト・アルバムのために曲を書く。ふたりがレコーディングにも参加したのが、シンディ・ローパーの「タイム・アフター・タイム」であった。ついでながら、「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン」のオリジナルを書いたのはやはりフィラデルフィアのロバート・ハザードで、フーターズにも参加するジョン・リリーとロブ・ミラーは、ロバートのバンド=ヒーローズの元メンバーだったから、シンディの成功はかなりフィリー人脈に支えられていたと言えるかもしれない。シンディのブレイクへの寄与もあって、彼女の所属レーベル=ポートレイトの親会社にあたるCBSコロンビアと契約を交わしたフーターズは、85年4月にメジャー第1作『眠れぬ夜』を発表し、上記のような状況を作り出した。彼らは続くアルバムで、さらなる飛躍を目指す。
1987年初夏。私は、フーターズの取材のためフィラデルフィアに向かった。新作のレコーディングが大詰めを迎えている彼らへのインタビューと、地元でライヴを観ることが目的だった。大スターになったシンディ・ローパーを支えたロック・バンドによる本格的な成功を決定づけるはずのアルバムだ。大きな期待をCBSコロンビアは抱いていたはずなので、CBSソニー(現ソニー・ミュージック)もリリース前の状況作りに動いたのだろう。取材旅行にはメディアから音楽ジャーナリスト/翻訳家の森田義信氏と著名男性週刊誌記者のT氏、そして私が参加し、担当ディレクターのU氏と渉外セクションのTさんが同行した。一行はまずマンハッタンに投宿し、そこからレンタカーでフィリーを目指した。
5月30日。ちょうど20年前にビートルズが名盤『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を発表した週だった。それを覚えているのは、目的地への道すがらカーラジオでDJが盛んにその話をして、アルバムのセッション音源として「ペニー・レイン」のピッコロが異なる形で入ったアウトテイク(後に『ビートルズ・アンソロジー2』に収録)をオンエアしたのを聴いたから。
夜のギグまでの間にフーターズをバックアップし続けていたフィリーの名物ラジオ局WMMRを表敬訪問し、こじんまりとした、でも音楽への愛情あふれるスタッフがハートにロックを灯しながら放送する様子に触れられたのもすてきな記憶だ。WMMRが『ピアノ・マン』以前のビリー・ジョエルのスタジオ・セッション・ライヴ音源で「キャプテン・ジャック」をガンガン放送し、それに興味を持ったクライヴ・デイヴィス(当時CBS社長)が、L.A.まで演奏を聴きに行ったのがビリーとの契約のきっかけのひとつとなったーそんなエピソードを知ったのはかなり後のことだけど。
フーターズをフィラデルフィアからアメリカ全土へと送り出した誇り高きファンたちでびっしりと埋まった、古いレストランみたいなライヴ・ハウス。
その夜は、新作発表を間近にしてのウォーミング・アップであり、支持者への感謝のステージだったようで、くつろいだ中にも並ならぬ気合いを感じさせた。2部構成で3時間近く演奏したように思う。エリックが”今夜は日本から友達が来てる”と言って、「上を向いて歩こう」の1節を弾いてくれたのが忘れられない。終演後、つまり真夜中に取材を行なうことになって、会場前で移動待ちしていると新加入のベーシスト=アンディ・キングが出て来て、”じゃまた後で”と挨拶すると楽器を肩に裸足ですたすた歩いていった。フィリーは自由だなあと思った。フーターズのメンバーや関係者らがとても人間的な魅力を感じさせたこととフィラデルフィアという街が有するアーティスティックで同時にフレンドリーな温もりを伝える土地柄は密接に結びつき、私の中で強い印象を残している。
フォトセッションとインタビューの場所は、フォー・シーズンズ・ホテル・フィラデルフィア。ここは84年7月26日にバンドがCBSコロンビアと契約を結んだ場所だった。各人、順番にメンバーの話を聞き、集合写真なども撮り、終了したのは明け方だった。すでにフラフラだったけど、もちろん昂揚したいい気分だった。それにしてもメンバーたちのタフさにも、振り返って驚く。
なかなかの珍道中であった取材旅行はなんとか終り、帰国。直後の6月18日に、今度は”イントゥ・ザ・ファイヤー・ツアー”を展開していたブライアン・アダムスのニューヨーク公演を観るために再び渡米した。そのマディソン・スクエア・ガーデンのステージでスペシャル・ゲスト(という名の前座)として登場したのが、なんとフーターズであった。不思議な縁である。
フィリー取材の成果として私は、ミュージック・ライフ誌にインタビュー記事を書き、予定よりやや遅れた新作『ワン・ウェイ・ホーム』(87年7月発売)のライナーノーツを、中川五郎さん、森田義信氏と共に担当する。
バンドはそこでケイジャンやレゲエなどルーツ志向をより強め、”新しい時代のザ・バンド”という側面でも評価を高めるが、内容のすばらしさほどの商業的成功を収めてバッチリ期待に応えたとは言い難かった。
87年11月の来日公演の際にもメンバーと再会した。そうそう、フィリーの夜の「上を向いて歩こう」について礼を伝えると、エリックは人生で最初に買ったシングル・レコードが坂本九だったそうで(もちろん米盤「Sukiyaki」)、日本でのステージでは唱法まで完璧にコピーして披露してくれた。89年に次作『ZIG ZAG』をリリース後、90年にも来日公演が行なわれている。
フーターズはメンバー・チェンジを経て、93年にMCAレコードに移籍してのアルバム『アウト・オブ・ボディ』を発表後、次第に活動は停滞する。エリックとロブはジョーン・オズボーンのデビューに協力(96年)するなどそれぞれの仕事を続けるが、01年の再結成ライヴをきっかけにツアーを再開し、07年に自主制作で『TIME STAND STILL』をリリース。10曲入りというLP感覚も小粋な好盤に胸躍った。09年10月23日には、一週間後に取り壊されるフィリーの屋内競技場=ワコビア・スペクトラムのサヨナラ・イヴェント”LAST CALL”に、トッド・ラングレンやホール&オーツと出演している。10年にはEP『5X5』が届けられ、以降もライヴ活動に精を出し、今年も”35 YEARS LIVE”と銘打ったツアーを6月から開始予定で、ドイツを中心に展開する。
再び2015年1月20日夜。東京・日本武道館のバックステージにて、ショーの後の出演者と関係者の労いの時間に、私はロブ・ハイマンがやって来るのを待っていた。大分経ってから、彼はひょっこり現れた。フィリーで初めて会ってから28年近く。そりゃまあ、お互い老ける。あらためて自己紹介し、87年のことをチラッと話すと、”ああ、そうなの?”と微笑んでくれた。ロブは誰も取らないケイタリングの小さいハンバーガーをひとつ皿に乗せ、部屋を後にした。とても短い再会だった。でも、とにかく元気で、そして日本に帰って来てくれたのが嬉しくてしょうがなかった。そして私は、きっとまた会えると思っている。
(2015.04.17)