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第21回 エリック・カルメンのころ
     <前編:失恋と「恋にノー・タッチ」…そんなベタな>

 「オール・バイ・マイセルフ」が全米チャートに入ってきたのは、1975年12月のこと。当時私は高校1年生だった。曲はゆっくりとランクを上り、76年3月6日付けで、ミラクルズの奇跡のカムバック・ヒット「ラブ・マシーン(パート 1)に次ぐ第2位に到達。ところが翌週3月13日付けで、こちらも驚異のカムバック・ヒットとなった「1963年12月(あのすばらしき夜)」(フォー・シーズンズ)が飛び越して王座を獲得し、3月20日付けまで続けた3週第2位が最高位に。3月27日付けで第4位に後退する。このころで言えば、「愛のローラーコースター」(オハイオ・プレイヤーズ)や「愛はそよ風」(ベラミー・ブラザース)や「ディスコ・レイディー」(ジョニー・テイラー)のような明るくて軽くて陽気で能天気なタイプが好きだった私には、「オール・バイ・マイセルフ」は重くて陰気で勿体ぶった曲に感じられた。そこがしかし、ヒット・チャートのマジックだ。ラジオ関東の『全米トップ40』を欠かさず聴き続けるとランク・インしている間、とりわけ上昇中は毎週必ず耳にするわけで、それが曲への親しみと理解を格段のものにする。そうして終生忘れられなくなったヒットは、この時期いくつも自分の中に生まれている。
 
 76年4月に私は高校2年生になり、同じクラスの女子に初めて交際を申し込むという体験をしている。基本的に始終くだらないことばかりをしゃべっていたら、異性にしては妙に波長が合い、いっしょにいてやたら楽しく、次第に恋を意識した。なんとなくつきあうような空気になってかなりすぐ、それこそ1ヶ月ほどで相手の態度が変わり、そして結局断られた。流れで交際みたいになったけど、実は他に想いを寄せている存在が居るのに気づいた・・・たしかそんな理由を伝えられた記憶がある。短い中でひたすら楽しい気持ちだけが鮮烈に刻み込まれたこともあって、私は理解も納得もできず、ひたすら落ち込んだ演技を彼女への当てつけに繰り返した。振り返ると実に未熟かつ身勝手で気恥ずかしいが、高校生なんかそんなもんじゃなかろうか。そんな自分の惨めで救われない気持ちにぴったりと寄り添っていたのが、「オール・バイ・マイセルフ」に続くシングル「恋にノー・タッチ」だった。この2曲によって、私にとってエリック・カルメンは決定的なアーティストとなる。シングル・ヒット最低2曲収録の鉄則にも適ったことからLPレコードで『サンライズ』を購入した。

ERIC CARMEN サンライズ  75年
ERIC CARMEN サンライズ 75年

 3曲目のシングルとなる「サンライズ」がオープニング・トラックで、これはエリックがラズベリーズからソロとなった第1歩を踏み出したことを高らかに告げる意味合いの曲だったと、後に知る。翌77年にショーン・キャシディがカヴァーし、そちらもゴキゲンなポップ・ヒットとして大好きになる「すてきなロックン・ロール」のオリジナルにあたる作者ヴァージョンが2曲目、それに「恋にノー・タッチ」、「オール・バイ・マイセルフ」、さらにフィル・スペクター&ビートルズ直系をうかがわせた「悲しきラスト・ナイト」と続くA面は本当に見事。

 01年の映画『ブリジット・ジョーンズの日記』において、レネー・ゼルウィガー演じるブリジットがひとり部屋で絶叫気味に歌うシーン(吹き替え歌唱はジェイミー・オニール)で、孤独の何たるかをいささか戯画的に伝えるのにも用いられた「オール・バイ・マイセルフ」は、アルバム・ヴァージョンでは中間部に挿入されたラフマニロフからの引用がさらに劇的に長く、重くて陰気で勿体ぶった感じはいっそう強まるのだが、溺れるように聴き入った。そして例の失恋とおもいきり重なったタイミングで、私の心にまるで主題歌のように日々流れていたのが「恋にノー・タッチ」だった。“Never gonna fall in love again”という原題が示しているように“失恋の悲痛な想いをもう味わいたくないから恋は2度としない”と綴られるこの曲は、願いが叶わなかった傷心を引きずりながら苦々しく不毛の高校生活にあった自分を、哀しみのヒーローとして慰めてくれるものだった。というか、「恋にノー・タッチ」を聴けば聴くほど辛さが増した。だが聴かずにはいられなかった。同じころ世界に、失恋の胸の痛みを携えながら歯を食いしばって耐えていた星の数ほどいたはずの人々の中の、私もひとりだったのである。「オール・バイ・マイセルフ」に全米第2位の美学(1位になれなかったゆえに愛しく感じるにはいられないなにか)があるなら、「恋にノー・タッチ」にはなんと全米トップ10入り目前で歩を留めるという最高第11位の伝説なる余録もついた。

 紙幅の都合であっさりとなるが、B面のポップとアーティスティックのさじ加減が絶妙すぎる「愛しのマイ・ガール」に「野望」、リリカルでクラシカルな「エヴリシング」、パワー・ポップの佳曲「ノー・ハード・フィーリング」も全部いい。締め括る、ドリフターズをカヴァーした「オン・ブロードウェイ」が彼にアメリカン・ポップスの正しい継承者たる認識を植えつけてくれた。こうして『サンライズ』は人生の1枚となる。まあ、高2だったんで、カトチャンとチョウさんじゃないそのグループがいるのに驚いたりしてたが。

 エルトン・ジョンに続いて夢中になれる同時代のポップ・スターとしてエリック・カルメン好きを自認した私は、大変な難産となるソロ第2作『雄々しき翼』(77年)を待つ間に、76年に編集された『ラズベリーズ・ベスト フィーチャリング・エリック・カルメン』というLPレコードも買って、とにかく聴き倒した。このとき日本盤についていた解説文が破格に役立ち、後世恥ずかしくもライナーノーツの仕事も務める自分にとって目標になったようだ。もちろん後年、筆者の八木誠さんと出会うことなど想像していなかった。それになにより、そこから3年後にエリック・カルメン本人にインタビューする機会を持つことなど夢にも思っていなかった。

*エリック・カルメンのころ<後編>に続く

BOATS AGAINST THE CURRENT 雄々しき翼  77年
BOATS AGAINST THE CURRENT 雄々しき翼 77年

追記:エリック・カルメン 49年8月11日アメリカ合衆国オハイオ州クリーヴランド生まれ。ビートルズやビーチ・ボーイズから刺激を得たローカル・バンドを経て、72年「ゴー・オール・ザ・ウェイズ」のヒットを放つラズベリーズの中心メンバーとしてシーンに登場。グループ解散の75年からソロ活動を開始し「オール・バイ・マイセルフ」から我が国でも人気の高い男性ポップ・アーティストとなった。
 今回私にはめずらしく赤裸々(?)な題材を選んだきっかけは、エリック・カルメン生誕66年となる2015年8月に、ソロ・デビュー40周年記念としてアリスタ・レコード時代の4作品がソニー・ミュージックから復刻されたことだ。音質の向上、ボーナス・トラックの充実は特筆すべき。それらの紹介はレコード・コレクター誌2015年10月号で拙文を寄せているので機会があればご参照下さい。

(2015.09.08)

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