36年前のちょうど今頃、79年11月の夜。私は東京・九段下を地下鉄駅に向かう帰路にあった。たった今、ラジオの世界で洋楽ポップスを紹介することを生業にするきっかけのひとつとなった人物に会えた喜びと、仕事としてのインタビューという観点ではまったく上手くいかなかった口惜しさとが混在し、とても複雑な想いだったのを憶えている。
エリック・カルメンは、第10回世界歌謡祭のゲストとして来日を果たした。ちなみにそのときのグランプリは「哀しみのオーシャン」でボニー・タイラー、グランプリ/歌唱賞が「大都会」でクリスタル・キング。で、エリックは、イヴェントの一環だった11月10日のショータイムのため日本武道館で7曲のパフォーマンスを披露した。ラジオ関東(当時)で放送されていた『全米トップ40』のアシスタントだった私は、そのライヴの直後に番組のためのインタビューを任され高校時代から憧れていたポップ・スターに直接会うチャンスを作ってもらったのだ。いちファンとしてエリックに心酔していたのを踏まえての番組プロデューサーの計らいだったと思う。
そのころ私はキャリア2年目、20歳くらいで甚だ心許ない若造であった。その日はひとりで指定の場所に赴き、通訳を介して30分の限られた時間に放送素材に足る話を聴かねばならない。はい、実はとても大きなプレッシャーでした。それまでいく組かのアーティストと番組用にインタビューはしていたけれど、大体は同じアシスタント仲間かディレクターがいっしょだった。単独で、あのエリック・カルメンかよ!とビビりまくったのだ。少しでもいい感じになるようにと、海外の人は日本の陶器が好きかもしれないと安直な思いつきで、直前に生協で在籍していた大学のネーム入りのドでかい湯飲みを購入し、どう見てもプレゼント仕様ではない包みのまま挨拶の後に手渡した。すると、その場で開けられたので当然周囲の日本人関係者の失笑を買い、それも気持ちが動転するには充分な空気を生んでくれた。本稿を書くため、本当に久しぶりにそのときのテープを聴き返してみた。思っていた通り、ヒドかった。
まず、質問の言葉が緊張でしどろもどろ。通訳の女性もあまり慣れていなかったのか、意図を斟酌するところがそれほどなく、例えば”ラズベリーズのころのことをうかがいたいのですが”と問うと”ラズベリーズの何を訊きたいのですか?”と通訳女性。”いえ、ですからそれを今から言います”ってな具合の噛み合わなさ。それでもソロ2作目『雄々しき翼』のプロデューサーがガス・ダッジォンから自身に変更されたいきさつとか、アルバムに参加したアンドリュー・ゴールドやリッチー・ヅィトーのことを質問していたのを改めて確認して、がんばったんだなあとは感じた。大好きなアーティストなだけに、”もっとしっかりした準備やきちんとした見識を持って臨まねばいけないんだ、インタビューは”ーそんな後の祭りな反省と悔恨の想いを胸に刻みながら、千葉の自宅に帰るべく東西線を目指した。
今回のアリスタ・レコード時代4作の復刻では、78年の第3作『チェンジ・オブ・ハート』に79年11月10日の武道館音源2曲(「マラソン・マン」と「オール・バイ・マイセルフ」)が発掘収録されている。これがすばらしい。まさにその日、千々に乱れた心象に満ちた者としては、36年後に耳にして深い感慨を得ずにはいられない。また、第4作『トゥナイト・ユア・マイン』の特別追加曲には、80年に実現した来日ステージから2月7日東京・中野サンプラザ公演のライヴ音源で「恋のインサイド・ストーリー」「オーヴァーナイト・センセーション」「トゥナイト・ユア・マイン」の3曲が含まれている。リイシュー4作を紹介したレコード・コレクター誌2015年10月号の拙文で述べたことと重複するが、これら来日公演の音源を公式編集したアルバム”ライヴ・イン・ジャパン”が実現してくれたら、本当にうれしいんだけどなあ。
では、エリック・カルメンとの会見に関する後日談を。初めてインタビューした日から、18年と2ヶ月ほど経った1998年1月21日。運良くラジオの仕事を続けて来た私は、FM横浜の早朝帯番組とFM大阪のカウントダウン番組を担当していた。日本のパイオニアLDCから世界に先駆けて久々の新作『愛の面影』を発表するエリックへのインタビュー依頼をレコード・コレクター誌より打診され、内容の1部を担当ラジオ番組で放送できるのを前提に引き受けた。前回からざっくり20年くらい経て、私も40歳前のオヤジになっていたのでどっしりと構えて臨みたかったが、それでもファンとは弱いもの。午前の生放送を終えて都内に向かいながら、やっぱり緊張し弱気になっていた。あのときのことがあるしなあ…だが杞憂だった。エリック本人が、成熟した余裕を湛えた人物として穏やかに質問に応じてくれたのが何よりも大きく、オハイオ州クリーヴランドの少年たちが60年代のあの時期にどのようにギターに手を伸ばし(エリックは鍵盤だけど)、大きな希望や夢を抱き冒険の人生を踏み出したかなど、それこそラズベリーズ以前のクワイアやサイラス・エリーのころに遡って丹念に語ってくれた。とりわけ印象に残ったのは、なぜこれほど長きに渡って音楽のキャリアを続けられたのか?の問いへの答えが、”ほかの道を考えることなんかできなかったからさ。どんな状況になったときも、音楽を好きな気持ちだけは変わらなかったんだ”というものだったことだ。その言葉を耳にして、泣きそうになった。
かくて私は深い安堵の想いを抱きながら、東京・目黒の山手線駅から横浜への帰路についたのだった。
(2015.10.16)