<前編 ボスとの出会い>より続く。
75年の『明日なき暴走』によってロック・シーンに大きな衝撃を与えたブルース・スプリングスティーンであったが、マネージャーのマイク・アペルが新たにプロデューサーとして絶大な信頼を得たジョン・ランドウへの対抗心を抱いて、契約を盾に自らの利権を主張し、これが裁判になって活動に大幅な制約を加えられる。せっかくの好機に次作に着手できなくなり、ファンは新しい歌を渇望した。この間もライヴ・ツアーは継続され、盤石の布陣を敷いたEストリート・バンドのバック・アップを得て3時間から4時間に及んで繰り広げられた濃密で苛烈なステージの評判は、ここ日本にも伝えられる。「スプリングスティーンのライヴを観られたら最高」ーそれはいつしかファンの間で強い共通認識になった。
係争を収め、78年6月に届けられたのが『闇に吠える街』。浪人生活を送りながら週末はラジオ番組『全米トップ40』にアシスタントとして参加していた私は、ときおりその番組制作会社のオフィスで電話番をしていた。
ある日の午後、届いたばかりの試聴用アメリカ盤『闇に吠える街』を聴かせてもらう僥倖を得た。針を落とし、息を潜め待った耳にマックス・ワインバーグの豪快なドラミングで始まる「バッドランド」が飛び込んできたとき、もう待たなくていいんだという安堵の後、長くお預けをくって乾ききっていた心を感情の洪水が怒濤のように襲い、「自分はスプリングスティーンが大好きダア~」という想いが身体中を駆け巡った。出会いから40年を過ぎた現在でもファンでい続けている気持ちは、結局あの瞬間に決定づけられたように思う。
それから2年ほど経った秋、大学から高田馬場駅に向かう途上の定例ルートで寄ったレコード店に入ると、まちがいなくスプリングスティーンの声だが聴いたことのない曲が流れていた。店内演奏中のレコード・ジャケットを飾る場所に、スプリングスティーンのどアップをモノクロで活写したLPが置いてあった。アメリカで出たばかりの『ザ・リバー』だった。私は当時も国内盤派で、入手が遅れても解説や歌詞/対訳を重視した。が、この日は抑えきれず2枚組を連れて帰り、しばらくは『ザ・リバー』にどっぷり浸かる時間を過ごすことになる。
1981年夏、人生初の海外旅行でアメリカを巡っていた私は、旅の後半で西海岸に向かった。ロサンゼルスに流れ着いたのが8月27日。当地では、『全米トップ40』でお世話になっていた湯川れい子さんの親友Cさんのお宅にしばし身を寄せる予定で、ダウンタウンのバス発着所から電話したところ、業界の大先輩だったSさん(故人)が迎えにきてくださって面食らった。湯川さんと懇意だったSさんも、たまたまCさん宅に逗留していたのだ。「今、ブルースがショーをやってるぞ」ー図らずもSさんがいてくださったことから、何ら予定を入れていなかった私に、再び僥倖が降りて来た。Sさんはすでに前夜のステージを観ていらして、関係者入り口から舞台裏を抜けようとした機材置き場でスプリングスティーン本人が何やらノートに歌詞のようなものを書いているところに遭遇され、直接挨拶したと聞いて、そんなことが起こるのがアメリカなんだ!と舞い上がった。
いっぱしのファンを気取りながら、私はその旅でスプリングスティーンの”ザ・リバー・ツアー”と邂逅するのをまったく想定しておらず、それ以前のニューヨークでの日程に入れていた3回のライヴ(パット・ベネターとジャクソンズとスティクス、すごいでしょ?)だけでいっぱいいっぱいだったのだ。「矢口くんも観たい?」と訊いて下さったSさんに、ふたつ返事で「ぜひ!」と応えた私。Sさんに尽力いただいてチケットを入手すると、8月28日、L.A.最終公演となるスポーツ・アリーナに、はやる気持ちを抑えながら足を運んだ。
<ブルースから帰って来た。すべてだった。オープニングが「ロッキン・オール・オーヴァー・ザ・ワールド」、1部のエンディングが「涙のサンダーロード」、2部オープニングの「ハングリー・ハート」を本人は歌わず観客が大合唱、「ロザリータ」でいったん幕、すぐに戻って来て「ジャングルランド」、「明日なき暴走」、ロックンロール・メドレー。午後8時40分から深夜0時40分まで4時間(1部と2部の間に30分休憩)>・・・会場についてからは興奮しっぱなしで、Cさん宅にようやく戻った午前4時に、記録していた旅行ノートへ書き記したメモの内容がこれだ。
さすがに記憶はかなりおぼろげなのだが、観客はごく普通の、いわゆる労働者階級然とした男性が多く、隣の席になったメキシコ系風の男とたどたどしく会話すると、彼もスプリングスティーンのライヴに来られたことにテンパッてるのがよく判り、私が「日本からやって来て海外に出たのも初めてなんだー”It’s very first time for me to go abroad.”」と言ったのがちゃんと伝わらず、「Yeah yeah! we go brothers”ーそうだぜ、俺たちゃ兄弟だ。」みたいに答えられたのをよく憶えている。ふり返ってみると、あの空間全体の息づかいが解るような会話だったなあ。こうしてこの夜は、長い旅のハイライトのひとつになった。
2016年。『ザ・リバー・ボックス』の発表に合わせての”ザ・リバー・ツアー 2016”が1月16日のピッツバーグ公演からスタートした。シカゴ、ニューヨーク、ワシントンDC、ニュージャージーの5回のショーで、9万579人を動員し、1,228万8,709ドルのチケット収益を上げ、この週もっとも成功した興行となっている。全会場が売り切れ。
3月24日のワシントン州キーアリーナ公演を例に挙げると、冒頭、『ザ・リバー:アウトテイクス』からの「ミート・ミー・イン・ザ・シティ」を演って、『ザ・リバー』本編の丸々20曲を収録順に披露。その後、代表曲を歌って29曲目の「涙のサンダーロード」でいったん幕を閉じ、「ボビー・ジーン」からのアンコールはアイズレー・ブラザーズのカヴァー「シャウト」まで、計35曲。3時間半のライヴを展開している。
伝聞によるとボックスの発表に合わせて、「09年11月8日にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでやったようなスタイルで2回くらいの記念全曲ライヴを」と、ある関係者から打診されたところ、もともとはEストリート・バンドとの予定はなかった16年だったのに、「連中と演奏したい気分になった」とかで、大規模なツアーに発展したそう。3月末の時点で、5月14日のスペイン/バルセロナからヨーロッパ日程に入り、6月23日のスウェーデン/ヨーテボリまでが予定されている。どんだけ演奏したい気分なんだ!
3月19日に行なわれたロサンゼルス公演は、ここでの通算34回目にして”最後の”スポーツ・アリーナが会場。建築物としての50年以上におよぶ歴史に幕を閉じて取り壊されサッカー場が建てられるのだそうだ。81年の“ザ・リバー・ツアー“からここに親しんできたスプリングスティーンは、3回のソールド・アウト・ショーの初日に「この会場にいられてうれしい。じゃあ、美しい建物をぶっ壊してやる」と言って「レッキング・ボール」(故郷ニュージャージーのメドウランズ・スタジアムが取り壊されるのに合わせて書いた曲)を演ったとか。うう、なんて粋な。
1981年の夏、私もその歴史の1部となった夜を過ごせたことを、時間という大きな川の流れに導かれたのかもしれないと、不思議な感慨を味わっている。
(2016.04.28)