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内田正洋 内田沙希 シーカヤックとハワイアンカヌー 海を旅する父娘の物語 photo by James Hadde

第23回 今度は丸木カヌー実験なんだな

 さて、ずいぶんと時間が過ぎたが、今回は再び親父の番である。娘は今もニュージーランドにいて、というか、あちらで暮らしている。5月に一瞬帰国したのだけど、すぐに私(ワシと読んでね)と一緒に台湾へ向い、例の3万年前の航海プロジェクトの航海実験をやっていた。
 彼女と一緒にニュージーランドのマオリ族(まぁ先住民だな)で、カヌーナビゲーターになりつつあるトイオラ・ハウィラくんもやって来た。一昨年の与那国島での実験と昨年秋の舞鶴での丸木舟漕ぎに彼は参加したけど、昨年夏の台湾実験には参加できなかった。でも、今回は沙希と2人して来日し、踵を返すように台湾へ向かった。
 トイオラは、10代の終わりから伝統航海術を学んでいる。そういう経験を持っている若者は世界的にほとんどいないし、日本人だと沙希以外には今のところいない。台湾にもまだいない。すでに彼らは貴重な存在である。沙希は航海カヌーでハワイ〜ニュージーランドを往復しているし、トイオラもまたニュージーランド〜イースター島を往復した経験がある。2人ともホクレア世界周航のクルーでもあった。
 
 5月末、昨年のメンバーも同時に台湾入り。6月半ばまで台湾の東海岸で竹を束ねた竹筏舟での実験を再度行なった。昨年だけではまだ見えない部分があったからだ。当然新たに竹を伐って新しい竹筏舟を作った。前年の「イラ」の経験からかなり改良する。もっと速くしようゼ!という目論見があった。
昨年に続いてアミ族の竹筏職人ラワイさんが工夫しながら竹筏舟を作ってくれた。重量は相当に軽減されたのだけど、乗ってみると今度は浮力が足りないことが分かった。そのバランスが非常に難しい。だから現場合わせの作業が続く。
 アミ族は、台湾の先住民であるから、ラワイさんとトイオラとは祖先がつながっている、とされている。ポリネシア人の出自は台湾とされているからだ。もちろん、私らにもつながっている可能性は高い。台湾は琉球でもあったと私は思っていて、それは九州までつながる文化圏だと思っている。
 トイオラは英語とマオリ語をしゃべる。ラワイさんはアミ語と台湾語をしゃべる。つまり、2人には共通語がない。でも、一緒に作業をしていて彼らの意志疎通がスムーズなのにちと驚いた。言葉じゃなく何かが通じ合っているんだろう。まぁ、私も同じように通じるが。とにかくアミ族とマオリ族には似たような感覚があるんだろうと、ヤポ族(ヤポネシア族)の私は感じていた。私らにも似た感覚がある。

 改良した竹筏舟「イラ2号」は、前年の「イラ」に比べると、多少は速度が出るような「感じ」になった。重さも半減した感じだ。ところが、実際に漕いでみると、思ったほど速度は上がらない。潮に流されても4ノットに到達することがなかった。結局、竹筏舟の限界というものが見えてきた気がしたのである。何かが足りないのである。それを考えていたら急に思い当たった。
 「あー、行き足じゃん」と。
 基本的に舟は、一度走り始めると滑るように動いていく。それを行き足(ゆきあし)と船乗りたちは呼ぶ。勢いがつくとその勢いで走るということだ。惰性や慣性が働くのが舟。逆にいうと、舟はすぐには止まれないということでもある。
 
 それに、これはシーカヤックでも同じだが、ある速度まで達すると、その勢いを止めないような漕ぎ方をする。速度を上げるというより速度を落とさない、そういう考えで漕ぐ。そこに舟としての性能というか生まれつきの能力があると、私ら漕ぎの航海者たちは感じている。
 これまでの草束舟や竹筏舟は、この行き足に問題があったのだと、私は気付いて結論づけたのである(違うかもしれんよ?)。草も竹も胴体は結びによってカタチ作られる。結ぶには縄状のものがどうしても必要で、舟の胴体に巻かれたその縄は、前後方向の抵抗になる。舟の行き足を止めるのがその縄である。だから漕ぎをやめた途端、草束舟も竹筏舟もすぐに止まってしまう。それが、舟足(速度のこと)が上がらない理由じゃないかと、私は一応結論づけた。その意見に漕手たちも同意し、学者たちも同意した、と思う。

 そして、台湾東海岸の特有の風にも気付いた。天気図では、あきらかに風が吹かないはずなのだが、朝方から風が吹く日が続いた。海風が朝から強い。当然、岸沿いには磯波が打ち寄せる。でも、なぜ?ということだ。等圧線は広く、風が吹くという感じじゃないのだ。私や漕手たちは、ビーチにテントを張って海の変化を身体で感じられるよう過ごすようにしている。その感じ方を、私らは「海気」を感じると呼んでいて、昨年からそうしている。台湾の海のことは、ほとんど知らないからだ。でも、どうして海風が吹くんだろうという疑問が解決できないでいた。
 それが分かったのは、1週間ほどが経過した頃。沖合にいる漁船との交信がヒントだった。岸沿いではかなり吹いているその瞬間、黒潮に近い沖合の漁船の海域では吹いていないと言われたのである。それでピーンと来た。「あー、海陸風だな、こりゃ」である。
 海陸風は、海の温度と陸の温度の差で気圧差が生まれて吹く風。毎日起こっている。海は暖まりにくく冷めにくい。陸は逆である。その温度差が気圧差となり風を起こす。その極端な例が台湾東海岸なのだろう。そう考えるしかない。

 それで結局は、竹筏舟では黒潮を越えての移住っては、かなり難しいなという考えに、徐々になってきた。草でも竹でもないとなると、あとは丸木である。当初から草、竹、そして木と考えていたから、次は丸木舟、つまりカヌーでの実験をせねばならんのである。
 昨年、能登半島で杉の巨木を旧石器時代の石斧レプリカで切り倒したことは前に書いたことだけど、それを今度は丸木のカヌーに加工することになった。根元から10メートルぐらいを石斧でさらに切断し、そして刳り貫いていく。もちろん旧石器時代の刃部磨製石器と同じ石斧のレプリカで、である。
 
 夏の間(7月終わりから8月上旬)は、上野にある国立科学博物館の玄関前での公開作業となった。加工するのは石斧スペシャリストの雨宮国広くんである。切り倒すところから切断、さらには刳り作業まで、ほとんど1人での作業である。
 実験であるから、当然ながら刳る回数までカウントしている。切り倒す時も3万6000回ほど(6日間)斧を振るったというから、とてつもない作業だ。でも、雨宮くん(雨ちゃんと私は呼ぶ)はへこたれない、というか、めげない。何しろ石斧大好きなのである。
 
 この石斧を扱う技術もまた、私らの漕術と似ていると思った。彼が刳っている作業を初めて見た時、実に軽く斧を振るう。しかも正確に。刳る時の音がまた心地よい。太鼓を叩いているかのようだ。
 もちろん疲れるのだろうが、そのスパンが長い。私らのような長距離の航海者も同じ。1回1回の正確なパドリングは、疲れるというより心地よいから続けられる。そのうちに熱中していくのだろう、漕いでいるという感覚がなくなり、あたかも漕ぐ機械のようになっている自分がいる。じゃなきゃ1日中漕ぎ続けられない(時折、休憩はするけど)。雨ちゃんの作業を見ていたら、漕いでいるようにも見えてくる。

 現代の鉄斧や機械に比べると、まったく純朴な道具だけど、雨ちゃん曰くストレスがないらしい。石斧の素晴らしさは、そこにあると。その言葉に私も同意する。シーカヤックを漕ぐ際、私は木製のパドルを使っているのだが、まさに同じようにストレスがない。木のパドルを使い始めて15年にはなろうか。シーカヤックだけじゃなくサバニのパドル(ヱークという)も木製で、そちらも同じぐらい使っている。
 現代のパドルは、ほとんどがFRP製だけど、すでに私はFRPパドルが苦手になってしまった。何やら堅いというか、きつい感覚。要はストレスを感じてしまう。乗っているシーカヤックはFRP製かポリエチレン製、時々はファルトボート(折り畳み式のシーカヤック)にも乗るけど、パドルだけは木製じゃないとしっくりこない。木製パドルは、石斧感覚なのかもしれない。雨ちゃんの石斧作業を見ていたら、そう感じていた。

 沙希は、台湾の実験が終わってニュージーランドに戻り、7月に一度帰国して、8月からはまたニュージーランド暮らし。まぁ彼女はマオリの社会にいるからニュージーランドというよりアオテアロアで暮らしていると言った方がいいかな。さらに、なんと彼女は懐妊して今年(2018年)の暮れ近くに出産の予定になった。この原稿を書いているのは11月初旬なので、もうすぐであるな。すると私には孫ができ、そしてジジイになるのである。いやはや、それが時間の経過なんだろな。孫の親父はトイオラである。我がカヌーファミリーは、アオテアロアまで拡がっていくのである。
 
 で、丸木カヌーである。晩夏から初秋(9月下旬から10月上旬)になり、粗削りだったカヌーを千葉の館山にある東京海洋大学の実習場へと運び、試し漕ぎをしながら、仕上げをしていくことになったので合宿することになった。館山湾でのテストをやり、さらには伊豆大島を目指してのテストもやることにしていた。丸木舟は、学術的には「刳舟(くりぶね)」と呼ぶ。でも、本来的なカヌーであるから、カヌーと呼んでいいと私は思っている。
 館山湾の湾口近くに海洋大の実習場はあり、海岸には斜路(スロープ)もある。しかも湾奥にも別の実習場があり、こちらにも専用の棧橋や斜路がある。ウインチもあるので、重いカヌーを引き上げることもたやすい。さすがの海洋大である。

 持ち込まれたカヌーを見て、漕手たちはまず驚いた。まだカヌーになってないじゃん、だったからだ。見た目は確かにカヌーなのだが、粗削りの粗削りという段階だったので、雨ちゃんにお願いして、重量で半減するぐらい刳ってほしいということになった。やはり漕手からの視点がないとカヌーは作れない。
 このカヌーには、まだ名前がなかった。そこで進水式をやることになり、雨ちゃんが儀式をして名を授けることになった。粗削りのカヌーに紅白幕を付けて日本式のお祈りを捧げ、最後に命名である。それで「しだびな」とか何とか言っている。みんなが「???」となった。儀式が終わって雨ちゃんに聞いたら「いや、シーダー・ビーナスですよ」だと。「英語かよ!」と私ら一同は、ずっこけたのであった。
 そのあたりが雨ちゃんらしいのである。「でも英語じゃ雰囲気じゃねーなぁ」となり、シーダーは杉で、ビーナスは美女、つまり女だから「スギメ」にしよーとなったのである。私らは(いや、私だけか)この旧石器カヌーを「スギメちゃん」と呼ぶことにしたのである。愛着が湧く名じゃないか。ちなみに私の婆さんは「マサメ」である(関係ないけど)。

 ということでスギメちゃんは、試し漕ぎを繰り返しながら刳り作業が施されていく。結局、切り倒した3万6000回にも及ぶぐらい斧を振るって一応の完成をみたのである。そして、次にはスギメちゃんの初の外洋航海も試してみる。館山湾口から伊豆大島を目指し、途中で戻って来るというコース。伴走用にヨットをお願いしての割とお気楽散歩気分で出かけたのだった。
 館山湾から東京湾口へと出ようとすると北風が強くなりスギメちゃんはかなりウェザーコッキング(風見鶏現象のこと)することが分かった。舳を南へ向けたいが、北へ向こう向こうとする。ようやく南に向き、南へと進む。すると今度はどんどん進んでいく。
 スギメちゃんからはイリジウム衛星(衛星携帯電話用)を経由して10分毎に位置を教えてくる。in-Reachというガーミン社から出ているGPS受信機なのだが、イリジウム衛星に位置を送り、それがスマホでモニターできるのだ。私は伴走のヨットからその動きをモニターしていた。

 出発して3時間ほどが過ぎ、お昼になった頃、スギメちゃんは何と時速10キロを越えているではないか。つまり5ノットオーバーで進んでいる。草でも竹でも決して出なかった速度だ。目標にしていた4ノットを軽くオーバーしていた。
 そして4時間ほどが過ぎた頃には、すでに伊豆大島の北端にあたる緯度である北緯34度48分ほどまで来てしまっていた。いくらなんでも速過ぎると私は直感的に思い、いきなり戻ることを無線で漕手たちに伝えた。そして、えらいことになるのだった。

 戻り始めたのは午後1時ぐらいだった。当然房総半島は見えている。見た目の感じではスギメちゃんは快調に滑っているが、どうも変だ。位置がほとんど変わらない。進んでいるように見えるのだが、イリジウムからの情報は進んでいないことを教えている。
 「こりゃ、流されとるな」である。
 午前中の速さは、間違いなく流れに乗っていたということだ。黒潮の本流じゃあるまいし、そんな流れが房総半島のほとんど沿岸まで来てるはずはなかろう、というのがほとんどこれまでの常識。確かに黒潮が蛇行しているのは海上保安庁が日々出している海洋速報から分かっていたが、房総沿岸まで近付いているわけじゃなかったから普通に考えていた。ところが、40分も漕いだのに、位置がほとんど変わっていないし、さらに東へ流されている。漕手は北へ進んでいるつもりなのだが。
 午前中の嬉しい驚きは、落胆の驚きに変わり、急激に帰路が心配になった。このペースで北上しようとしても北上はできず、房総半島の東側へ進むことしかできない。明るいうちに上陸するのもすでに無理だと分かった。そこで伴走のヨットで曳航するとすぐに決断した。曳航用のロープは事前に用意してあった。漕手たちも、原キャプテンを残して全員を伴走船に揚収した。
 
 曳航を始めると、スギメちゃんはすぐに浸水する。波を被るからだ。伴走船の速度も上げられない。原キャプテンは、曳航されながら舵取りもしながら、さらに淦汲み(排水)作業におわれる。満水近くになると止めて淦汲み。一向に進めない。速度を上げるにはリスクが高く、午後5時半頃には日没になるからキャプテンも揚収してスギメちゃん単独で曳航することに決めた。浸水してもその揺れで排水するかもしれないと思ったからだ。サバニの経験からそう考えた。
 暗くなってからは2ノットぐらいで曳航していく。漕ぐ速度より遅いが、リスクを考えての速度。耐えるしかない。海洋大の斜路へ向かうことも、暗いために諦めて、伴走船の母港(館山湾の奥)まで行くことにする。結局、港に到着したのは午前0時半過ぎ。往きはよいよい、帰りはこわいであった。往路は4時間、復路はほぼ12時間というテスト航海となったのであった。やれやれ。

 外洋テストが終わっても、まだ合宿は続いていた。少し間を空けて再びの合宿である。雨ちゃんもやって来て、さらに刳り作業を続ける。本当に頭が下がるぐらい熱心にスギメちゃんを美しくしようとしている。
 沙希の懐妊によって、女子の漕手がいなくなる可能性も出てきた。来夏までには復帰するだろうが、できない場合も考え、今回の館山合宿には女子の漕手候補にも来てもらった。全国のシーカヤッカーや沖縄のサバニ、さらにはアウトリガーカヌーやSUPの連中と相談していた。今や漕ぎができる女子も多いから、何とかなるとは思っていた。でも、数日間外洋を漕ぎ続けるということをイメージできて、実際に漕いだ経験がある女子はなかなかいなかった。しかし、女子がいないと移住はできない。とはいえ、ようやく3人の候補者が出てきた。彼女たちの中から、来年の遠征に来てもらえる人が出てくれるとあり難いのだが。
 ということで、年内もギリギリまでスギメちゃんの調整と、漕手たちの訓練というか、スギメちゃんに慣れるための時間を取ることになっている。ということで、今回は終わり。

(2018.11.15)

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