前々回から引き続きの話であるが、今回は後編とした。とはいえ書き進むうちに後編の続編が出てくるかもしれない。なにしろ、3万年旅であるから、3万年分の話題があるかもしれん、とも思う。
それで、前回の最後のキャプションに書いた、人が海へと出ていった気持ちや思い、その理由の一端と思われることが分かった、ってところから今回は話を進めるかな。
2年前の竹の筏舟の実験の時から、台湾の東海岸に滞在中の私(ワシと読んでね)は、毎日砂浜にテントを張って過ごしてきた。ホテルには泊まらず、ずっと砂浜で過ごしながら、夜も砂浜で寝ていた。身体は砂だらけだ。
今回、このプロジェクトが丸木カヌーの検証になったことで、ようやく私はいつものシーカヤックの海旅と同じ次元でものを考えられるようになった。丸木とはいえカヌーはカヌーである。というか、カヌー本来のカタチは丸木である。しかも帆を使わない手漕ぎカヌーであるから、まぁサバニとも基本的には同じ世界の海旅だ。
したがって、カヌーであるスギメだからして200キロほど先に浮かぶ与那国島まで漕いで行くことは、普通にできることである。タイミングさえ間違えなければ、黒潮の本流があろうがなかろうが、漕いで行けることは間違いない。シーカヤックよりは遅いだろうが、行けないはずはない。この感覚は、漕ぐことを職業にしている職能集団、つまり漕航士たちであれば理解できるのだが、一般の人にはまず分からない。間違いなく冒険だと思われてしまうことも分かっている。
もちろん、遭難の危険性は常につきまとうことだ。それは海旅の世界では逃れられないこと。そこで常にリスクを考えるようになる。リスクの語源は「岩壁に沿って航海する」という意味だと連載の25で書いたけど、岩壁に沿っての航海は、上陸できるところがなく、暗礁なども多く、しかも磯波が打ちつけるわけで、非常に危険なところだ。それでもそのリスクを取り、沖合じゃなく沿岸を航海する方が、距離や時間的に早く目的の港へ行けるとしたら、人はリスクを取るという選択をする場合もあろうし、取らない場合もあろう、ということだ。
ところが、このプロジェクト、丸木カヌーのスギメが、本当に与那国島まで漕いで行けるかということが、いつの間にか目的化していた。私らとの意識の違いがそこにあった。
カヌーであるスギメを丸木舟と呼ぶことで、原始的な舟というイメージを醸し出し、これで到達できたら旧石器人の実力も凄かったことが分かる、といったシナリオができるんだろう。でも、スギメが一応の完成を見た時点で、私や漕航士たちは違うリスクを抱えていた。
それは日程である。実験の時間を区切られているから、その時間内に出航しなければならない、というリスク。旧石器人にはない概念だろうな。時間内に海が穏やかになり、その瞬間を見逃さず、ささっと海峡を横断するには、どうするかが、私らの最大のリスクだった。
当然ながら、リスクを取らない選択肢もあり、その場合は日程を延長するか来年に持ち越すか、ということも考えてはいた、でも、それは日程内に終わらないとハッキリした時点での選択である。それで、私らは砂浜にテントを張って、出航の瞬間を逃さないように生活していたわけだ。その瞬間が訪れたら、すぐに出て行くことにしていた。
そして、この浜での生活が思わぬことを教えてくれたのである。それは、人がなぜ海へ出て行くかという根源的な疑問に対応するような感覚。思ってもみなかったことだが、日々海のすぐ際で生活していることで、気付いてしまったのである。それを私に教えたのは、太陽だった。そう、お天道さまだったのである。
かなり穏やかな朝だった。暗いうちから目が覚める日々が続いていたのだけど、東に向いた浜だから正面から朝日が昇ってくる。その日、朝日から波打ち際まで伸びる黄金色の細い光の筋が、いきなり「道」に見えたのである。「あれっ、こりゃ道じゃん!」と。
この海上に映る黄金色の光の筋は、30分ほどで白い光になり、幅も拡がり、そして消えていく。これが毎日続いていることに気付き、お天道さまへと続く道がある、そう私は強く思った。しかも、真っすぐな、直線の道であるし、歩いて行けそうにも感じた。カヌーがあれば、その道筋を辿っていける。
3万年前どころか、縄文時代にあっても直線の道路などあるはずもなく、直線の存在というと、真っすぐに伸びた樹木ぐらいだろうか。水平方向の直線など、倒木以外はこの世になかったに違いない。ところが、海の上には朝夕、直線の道が見え、夜もまた月光による直線の道ができる。この直線は、当然ながらカヌー本体にも通じる。樹木の直線から生まれるカヌーと光の道の直線との符合を、私はその時に感じたのだった。
朝の黄金の光の道の向こうには何かがある。そう旧石器人が考えたとしてもおかしくない。しかも思わせぶりに、黄金の光はすぐに消える。ますます道の向こうが知りたくなる。道の先には光がある。その光を見ると、希望に満ちた気持ちが自然に湧き出てくるところも不思議なところだし、旧石器人にとっても同じだったに違いない。明るさが希望という気持ちを生むのは誰でも分かることだ。ふむ、こりゃ間違いねぇぜ、そう私が思った瞬間だった。
遠くアフリカを出た人たち(ホモ・サピエンス)は、数万年かけて今の東南アジアまで歩いてきた。そして大きな海に出会う。しかし、その先にも陸地が見える。つまり、黄金の光の道の先には、陸があることをすでに知っていた。そして、丸木カヌーを作り始め、漕ぐという行為を始めた。海には光の道があり、そして海中には食料が豊富にあることも知った。
最初は、岸沿いを移動していたのだろう。そのうち遠出したくなる。陸と違って海は平らだ。風や波さえなかったら、平和な道が海の上には現れる。漕ぎを覚えた人たちは、黄金の光の道、つまりは東へ東へと進む。夕方になると沈む夕日が作る光の道を戻ればいい。つまりは西へ、だ。
面白いことに、日本語の東(ひがし)は「日向かし」が語源とされている。つまり、日に向かうということを実際にやっていたということだろう。海の上でもそれが可能である。逆に西(にし)は、「去にし(いにし)」から来ているといわれ、帰る方角を意味する。西日本では、今も「帰る」ことを「去ぬる(いぬる)」という。私の育った山口県でも使っている。
東南アジアで海に出た人たちは、その後1万年とか2万年が過ぎても海へ出ていた。そして、さらに東へ向かった人たちは、強大な海流によって北へと移動していくことになる。そう、黒潮に乗って、である。東南アジアから東アジアにかけて、黒潮に乗るには東へ向かう必要がある。東へ向かうから北へ行ける。それは、今回も同じだったし、東へ向かうことが北へと行くことだと、いつの間にか私らは理解していた。
台湾から北東の位置にある与那国島へ向かうには、スギメを東、というよりもっと南東に向けて漕ぎ続ける必要があった。決して北や北東に舳を向けては漕がないのである。そこが重要なポイントである。
この朝の黄金の光の筋に「道」を感じたことが、海へと出た人たちの気持ちと同じに思えたのは、30年以上もシーカヤックで海を漕いで旅をしてきたからだろう。逆にシーカヤックの海旅は、人類が初めて海へと出た頃の、根源的な気持ちに触れる経験を、知らず知らずのうちにお与え下さっていた(賜び給わっていた)ということになる。
現在は、歴史上もっともシーカヤックやカヌーが世界中に溢れている時代だ。これほど手漕ぎの舟を使って海を漕いでいる人が多くなった時代はない。つまり、人類にとって海を漕ぐという行為は、特に今を生きる現代人にとっては、非常に重要なことだということにもなろう。じゃなきゃ、これほど多くの人が海へと漕ぎ出ることはするまい。そして、実際に海旅を続けることで、前回も書いたように、安全な海へと漕ぎ出せる瞬間があるという気付きも理解できるようになる。
実は、出航を待っていた時、一度だけ私は出航するというフェイクをやった。ちょうど月が変わった7月1日のこと。出航のタイミングを待ち1週間ほどが過ぎていた。漕航士たちには、かなりストレスがたまっていた。その日は、天気が落ち着きそうな気配があった。そこで一計を案じ、出航すると宣言して、実は中止した。でも、具体的に出航準備をすることで、シミュレーションにもなると思ったからそう動いた。出航準備をやることで、ストレスが多少は減るだろうと。あとで、本心をバラしたけど、そこまでする必要は、確かにあったのだった。
そして、それから1週間後、本当にその瞬間がやって来た。その日の明け方は、異様なほどに静かだった。それまで2週間以上続いていた磯波の音が、まったく消えていた。その静けさに気付き、慌てて飛び起きて海を見たら、これまでにないリアルな穏やかさの海がそこにあった。
「今日だな」と1人、つぶやいた。
すぐにテントから出ると、後ろにテントを張っていたキャプテン・コージもテントから這い出してきた。
「今日だよな」というと「ですね」と彼も言った。そして「迷い、ないです」とも。
こういう瞬間こそが、出る時の、まぁお告げである。すぐに出航準備を始めた。とはいえ、私はギリギリまでテントは畳まずにいた。最後にしようと思っていた。なぜなら、漕航士たちには、こう言っていたからだ。
「私がテントを畳む時が、出る時よ」と。
私は、伴走の船がいる成功の港まで研究者たちと先に出る。港からスギメの置いてある烏石鼻の海岸までは、船だと2時間ほどかかるし、何しろ国境超えであるからイミグレーションの手続きも必要だ。そして、手続きを終え港から出たら、いきなりのうねりに見舞われた。しかし、まったく躊躇する気持ちは出なかった。
烏石鼻の海岸の沖合も、かなりうねりがあり、風もあった。とはいえ、彼らも出ることに迷いはないと確信していた。昼過ぎになり、少し落ち着いた頃、いよいよスギメが漕ぎ出てきた。漕いでいる彼らにも躊躇する気持ちはまったく見えなかった。この時を、心から待っていた。
海へ漕ぎ出たスギメは、東というより少し南東へと舳を向けて漕ぎ続ける。東へ行くにはそれが理にかなっている。流れのある海峡横断をする場合のセオリーであり、フェリーグライドと私らは呼んでいる。瀬渡りの技術だ。特に川でのカヌーイングで使用する用語。黒潮は強大な川なのである。そして再び、人が東へと向かいたくなる気持ちが分かる瞬間が訪れることになった。
1昼夜が過ぎ、東へ東へと彼らは漕いで来ていた。そして2日目の朝が近づいていた。海上でも朝日からの光の道が見えてくるが、その前のことだった。東には明るく、希望に満ちた色合いが拡がり始めてきた。希望とは明るさだと理解できる瞬間だ。ところが、振り返って後ろを見ると、暗くおぞましい色の世界が残っている。明け方の海上では、東は希望に満ちた色であるにも関わらず、西は暗くどこかおぞましい。そういったコントラストがあることに気付いた。当然、人は希望を感じる方へと進む。おぞましい方角には帰りたくない。そして朝日が昇り、光の道が消えた頃、遠くに島が見えてくるはずであるが、その時点では与那国島はまだ遠かったのだった。
ということで、今回の後編は終わるけど、やはりまだ書き残したことがたくさんあったので、次回は「カヌー3万年旅」の続編にするかな。今度は、ナビゲーションの話になるな。
(2019.08.14)