TOP > 内田正洋 内田沙希 シーカヤックとハワイアンカヌー 海を旅する父娘の物語

内田正洋 内田沙希 シーカヤックとハワイアンカヌー 海を旅する父娘の物語 photo by James Hadde

第1回 親父はこうして海の男になった。

 私(ワシと読む)は、シーカヤックで海を旅することを主題に、もう四半世紀を越えて原稿を書き続けてきた男である。この随筆は、その四半世紀で変化した自分を取り巻く状況というか、もっと言うと「環境」というものについて綴っていくものである。とはいえ、個人的な話じゃない。いや、個人的な話“だけ”じゃない、と書いた方がいいか。

 シーカヤックというのは、海のカヌースポーツである。また、環境を旅する道具ともいえる。この連載は、海という環境を旅して得られる「知覚」という説明が難しい感覚を基に綴っていくことにする。しかも、父娘の2世代が同時進行で旅をしている実際を含めながら、綴っていくことになるはずである。

 父である私が、唐突に娘に相談を持ち掛け、ほぼ無理矢理、原稿を書いてもらおうとしている。この娘(長女だが)は、2008年からハワイに住み始め、今や想像を絶するカヌーの旅に出ようとしている。詳細は、本人が報告するから後述されるが、地球規模の環境をカヌーで旅するために6年間ハワイで修業を積んできた。そして、いよいよ旅立ちの時が近づいている。そのために、私はこの連載企画を考えたのだ。

 ということで、地球規模の環境の旅によって様々なことに気付いたり、様々な事象が起ったりすることを報告しながら、過去から未来へと続く父娘の環境の旅の始まりを、主題にしたいと考えている。ちょいとばかり、ややこしい表現だけど、まぁ、お付き合い頂きたい。

 そこで、まずは、私が環境を旅するようになった、そのきっかけから話を進めていこう。娘の話は、その後で。
 1956年だから昭和31年の1月、もう58年も前のことだが、私は海上保安官の息子として、長崎県の大村市で生まれた。父親の転勤のため、3歳からは長崎県の佐世保市で過ごし、小学2年生から5年生までは青森県八戸市、そして6年生からは山口県の山陰側にある長門市の仙崎という小さな半島の、いわゆる漁村で過ごした。仙崎には、高校卒業まで住んでいた。
 父親の職業柄、海沿いで暮らすから、当然ながら遊び場は海だった。特に7年間過ごした仙崎は、砂州でできた半島で、漁業も盛んだったため、海が本当に身近だった。
 中学1年の時、友だちと2人して簡単な板張りの船を作って、海へ漕ぎ出したことがある。波をかぶって浸水し、沈没しそうになったので必死に漕いで戻ったことがあった。2年生になり、今度は布製のカヤックを作った。カタチはうまくいったのだが、いかんせん強度不足と防水不足で、すぐに壊れた。でも、当時作った木製パドルは、一緒だった同級生が今も保管している、らしい。

 昭和40年代の仙崎は、まだまだ漁村の文化が濃く、子供が海へ出ることは当たり前の感覚だった。そんなところで育ったことが人生に大きな影響を与えるのは、今にして思えば不思議じゃない。海の世界へ雄飛するぞ、などという男児ながらの感覚は、漁業を始めとした海洋文化の基礎的な精神性である。しかし、今の男児にはそんな精神性はないのかな。当時の私は、背後にある中国山地には、ほとんど目を向けていなかった。山は登るもので、越えるものじゃなかった。
 ちなみに、全国にある海上保安部は漁村にあることも多く、八戸海上保安部も鮫町という漁村にあったし、仙崎にあった海上保安部は、仙崎海上保安部という名前で現在も存続している。
 さらに言うと、仙崎は古式捕鯨の伝統があったところ。明治になってからは、近代捕鯨の発祥地になったところでもある。また、大正時代から昭和初期にかけて活躍した童謡詩人「金子みすゞ」さんの故郷であり、私は彼女の小学校から高校までの後輩にあたる。彼女の詩に描かれる世界は、私が育った当時の仙崎にもまだ残っていたので、彼女の詩を読んでいただけると、状況がある程度は理解できると思うから検索して読んでほしい。テレビドラマにもなったから「金子みすゞ」で検索すれば、数10万件はヒットするはずだ。

 父親からの影響もあっただろうが、将来は海の仕事に就くことしか思い付かなかった。ただ、公務員である海上保安官になろうとは考えなかった。日本の海だけじゃなく、世界を航海することが夢だった。世界一周を初めて成し遂げたマゼラン艦隊(*註1)が、私の憧れだった。中学の夏休みの宿題である読書感想文は、3回共「死の艦隊・マゼラン航海記」(少年少女学研文庫)だった。まぁ、他の本を読まなかったというのも理由のひとつだが。

 高校時代はラグビー部に所属していて、2年生の時に花園(全国大会)に出場した。母校である県立大津高校(今は大津緑洋高校という)が初めて花園に出場した時のフィフティーンだった。
 ラグビーに異常に熱中するあまり、勉強する時間がなかったので、国立大学に進学するのは当然のごとく難しく、県内にある水産庁が所管する水産大学校への推薦入学を先生たちからは勧められた。しかしながら、海外雄飛を夢見る少年は、まずは東京に行かねばと闇雲に考え、日本大学農獣医学部の水産学科に進学した。学校は、神奈川の藤沢と、東京は世田谷にあった。今は生物資源科学部となり、水産学科は海洋生物資源科学科となっておる。

 何しろ当時の日大水産学科には、遠洋漁業学という専攻課程があったのである。そんな専攻がある学校は、日大だけだった。要は、プロのマグロ漁師を育てる専攻課程である。具体的にはマグロ延縄漁船の航海士を目指すものだ。
 かつては、借金が返せなくなると無理矢理乗せられると恐れられていたマグロ船に、自分から乗り込もうとしていた。とはいえ、漁村育ちにしてラグビーで鍛えられた少年には、それが男の仕事だぜ、と思えたのである。要は、マグロ漁師はカッコいい存在だったのである。八戸にいた頃見た「怒濤一万浬」という三船敏郎のマグロ船映画に感化されていたことも、先日何かの拍子に思い出した。

 大学に入ると、カッター部に所属した。カッターというのは、船舶に搭載されているカッターボートのことで、帆船時代には、連絡用や救命用のボートとして使用されていた。エンジンじゃなくオールで漕ぐボートである。マストも立てられ帆走することもできる。日本語では、端艇や短艇と呼ばれ、かつての海軍では訓練用として使われていた。訓練としての競漕からカッター競技となり、日大にもカッター部があったわけだ。もちろん、授業としてカッター漕ぎの実習も行なわれていた。
 当時の水産系の学校では、カッター部員は練習の過酷さもあり、特別待遇だった。実習では同級生たちに漕ぎ方を教える立場だった。当時の日大カッター部員は、年間150日ほどの合宿生活をしていて、ほとんど毎日のように海へ出ていたものだ。合宿所は横須賀にあり、合宿中は近所にある防衛大学校のポンド(船溜りのこと)に、日大の真白きカッターを係留させてもらっていた。防大のカッターは、防大らしくネズミ色だった。

 大学も4年生になると、本格的なマグロ船(とはいっても相当な老朽船だったが)である練習船「日本大学号」で、半年に及ぶ遠洋航海へと出発した。南太平洋を巡りながらマグロを獲るのである。上陸するのは、補給で立ち寄るハワイに数日間だけ。あとはずっと海の上。
 日大は私立だからして、水揚げ金額が重要で、先生たちはプロだった。実習などという雰囲気じゃなく、ほぼ本物のマグロ船という風情。先生たちの背中には、立派な彫り物(タトゥーですな)があった。船医も乗っておらず、そのあたりも本物風だったし、司厨長(コック長のこと)がごついおネエだったのも、さもありなん、だった。私らには、キチンと男言葉で話してはくれたが。

 ところがこの年、遠洋漁業の世界に激震が走った。200海里漁業専管水域という枠組みが、世界的に始まったのである。これは現在の排他的経済水域(EEZ)のことで、沿岸国の沖合200海里(1海里は緯度1分の距離で約1.852km、浬も「かいり」で、英語はノーティカルマイルnm)は、その国の漁業のための海域で、外国船が無許可で操業しちゃならぬというもの。もちろん、日本も外国漁船を排他的に扱うのだが、世界を席巻していた日本の遠洋漁業にとっては、終わりを意味していた。これからという時、私の夢は突然終わりを告げた。
 しかし半年以上に及んだ実習航海は、実に面白い経験だった。卒業しても乗り込めるマグロ船はすでになかったが、半年以上の洋上生活は、私を青年漁師に仕立て上げていた。築地で水揚げした時、東京の街が何とも狭苦しいところに見えていたことを思い出す。
 「日本大学号」が日本に戻った時、すでに大学の卒業式は終わっていた。しかもその年から、卒論を書くことが必須となっていた。書かなきゃ学士号がもらえない。慌てた私は、同級生と3人で、海上衝突予防法に関する海難審判という船の衝突事故に関する論文を、適当に書き、適当に発表して単位をもらった。卒業証書ももらったが、1ヶ月ほどして学校から連絡があった。君は1単位足りないことが判明したので、補講を受けなさいという。私はのけぞって、さぼっていた「旗旒信号」という旗で行なう信号の授業を受けるため、卒業してからも1ヶ月ばかり通学した。教授も私ひとりのために、授業を行なってくれた。当然ながら親には内緒だった。
 その後も就職先などなく、海外雄飛のためだとこじつけて、何となく海外に近づけるだろうと、羽田空港や輸入中古ジーンズ屋でバイトをしながら1年ばかり過ごしていた。そして1979年、突如として海外雄飛のチャンスが訪れたのだった。私は23歳になっていた。

 というところで、以降は娘にバトンタッチする。時代は違うが、彼女もまた突如として海外へと雄飛していくのである。

娘もまた、こうして海ガールとなっていった。
 では、ここからは娘である私(ここからはワタシです)が、後を引き継ぎます。
 私は、1989年、平成元年に生まれました。生まれた時、家は東京にありました。母親は、それまでカリフォルニアに住んでいました。パタゴニアというアウトドアのメーカーがありますが、当時は日本に支社がなく、本社のあるカリフォルニアで、デザイナーとして働いていました。アロハシャツの絵柄をデザインしたり、カタログのデザインをしたりする部署にいたそうです。パタゴニアで働く前は、東京のデザイン事務所に務めながら、アフリカのサハラ砂漠で行なわれていたパリ・ダカール・ラリーに出場していて、日本人の女性として初めて参加しています。
 父が何をしていたかは、次の連載で書くと思いますので省きますが、物心が付いた時には、神奈川県の逗子市にいました。でも、幼かったのでその頃のことは、あまり覚えていません。だから、父から聞いた話を書いてみます。
 3歳になった時、逗子市の南にある葉山町の、そのまた南にある横須賀市に引っ越しました。葉山町との境界に近い、目の前に海(相模湾)が見える小高い丘の中腹にある家です。とにかく、私は活発だったようです。家の下の海岸は、当時はまだ遠浅の広い砂浜でした。黒い砂鉄の浜で、生き物がたくさんいました。砂浜の横には磯もあり、海藻がびっしり生えていました。潮が引いて潮だまりができると、今でも大好きな生き物なんですが、ウミウシを捕まえてきては、名前まで付けて飼っていたそうです。父によると「キャンディ」という名前を付けていました。
 私が生まれた時、父はすでに仕事でシーカヤックを漕いでいました。全国を回りながら、シーカヤックを漕ぎ、記事を書く仕事です。私を北海道の積丹半島まで連れて行き、2人乗りのシーカヤックを一緒に漕いだこともあるそうです。伊豆半島では、作家の野田知佑さんと一緒に漕いだこともあるそうなんです。物心が付く前から、私はシーカヤックに乗っていました。漕ぎ方もいつの間にか覚えていました。

 幼稚園は、葉山町にあるカトリック系に行きました。幼稚園の後は家に帰って海へ行って遊ぶ日々だったようです。小学校は、横須賀市立の大楠小学校に通いました。男の子たちと、よくケンカしていました。先生ともケンカしたことがあります。かなり活発で男勝りだったみたいです。でも、思い出すのはいつも、海や海辺で遊んでいたことばかりです。
 日焼けして肌が真っ黒だったので、よく友達にからかわれました。インド太郎というあだ名まで付けられていました。そういえば、幼い頃は、自分のことを「ぼく」と言ってたそうです。ある時、友だちにおかしいと言われ、それで変えたらしいです。一年中色が黒かったけど、気にしたことはありません。それより、海で遊ぶことが面白かったからです。よく覚えているのは、葉山の海にある沖の岩まで行き、そこから飛び込んでいたことです。飛び込んでいるのは男の子ばかりでしたが、男の子のようだったので、みんなも気にならなかったみたいです。もっと沖合にある岩場へカヤックで行ったこともあります。シーカヤックじゃなくシットオンというタイプのカヤックで、友だちと3人で漕いで行きました。ちょっと沖まで行くと、少し違った海がありました。
 小学校の卒業アルバムに、将来の夢は海洋学者になると書いています。海が私の生活の、人生の一部になっていることはこの頃から既に自分でわかっていたんだと思います。
 また、3歳の時に初めて行った西表島は、今も思い出深いところです。飛行機で石垣島へ行き、そこから西表島までは高速船で行きました。父の友人でシーカヤックガイドをやっている方がいらして、長く滞在しました。それも父の仕事だったようです。沖縄のサバニという舟に乗って撮影をしました。シンガーソングライターの浜田省吾さんのための映像を撮ったそうです。私も出演していました。今でも、あのときのことは覚えています。なにせ、珊瑚でできたおとぎ話にでてきそうな島にも上陸したので。
 石垣島の港が見えた時、私は「おっきなプールがあるよー」と興奮して叫びました。車の中は爆笑の渦でした。自分ではなんでみんなが笑ってるのかわかりませんでした。真っ青な海がプールに見えたんです。西表島に滞在中は、地元の子に間違われるほど黒くなりました。それから7年後、再び西表島へ行きました。その頃は、すでに妹が生まれていて、家族4人でシーカヤックの旅をしました。砂浜でのキャンプ生活です。もう小学生でしたから、この時に見た光景や感じたことは、今もハッキリ残っています。おそらくですが、この旅で、ずっと海のそばにいたいな、と思ったんだと思います。本当に海は大きく、同じ海でも葉山の海とはこんなにも違うんだということを知りました。それからずっと、今でも海で遊んでいたいと私は思い続けています。
 初めて“Hawai’i”に触れたのは、小学生の頃、純粋なハワイ人でタイガー・エスペリさん(*註2)という方が鎌倉に住んでいたことが始まりだと思います。彼は伝説的なサーファーで、両親と仲が良く、私も可愛がってもらいました。それと、1998年ですから9歳の時です。ハワイから有名なカヌー航海者の方が家にやって来ました。ハワイを北端にしたポリネシアの広大な海をカヌーで航海している人で、ナイノア・トンプソンさん(*註3)という人です。タイガーさんはサーファーですが、カヌーの航海者でもあり、ナイノアさんとは古くからの友人でした。ハワイがアメリカだということも、その頃は知りませんでした。
 中学は、無理を言って葉山町へ越境通学していました。テニスがやりたくて、です。幼稚園時代の同級生も多かったし、家が葉山町との境界近くなので、葉山中学の方が距離も近いのです。中学では部活が忙しく、少し海から遠ざかりましたが、それでも夏になるといつも海でした。1年生の夏には、父と瀬戸内海の中央にある笠岡諸島(岡山県)にある白石島というところから、塩飽諸島(香川県と岡山県に跨がる)の本島まで、シーカヤックで旅をしました。あの旅の日々は、今でも忘れられません。白石島には、それまでも何回か行っていました。父の友人が今も暮らしている島です。その時、1人乗りのシーカヤックで、初めて長い距離を漕ぎました。キャンプ道具と食糧を積み込み、島から島へと渡るアイランドホッピングの旅でした。1日に40キロぐらい漕いだ日もあり、島々でキャンプしながらの生活は、本当に面白かった。それが、本格的に海を旅した初めての経験です。瀬戸内の海や島々は、本当に美しかったです。

 テニスの方は、それほどの成績を残せませんでしたが、中学1年の時に始まった町内のビーチフラッグ大会では、中学生以上の女子部門で3連覇したことも思い出です(ちょっと自慢)。そして3年生の夏には、沖縄で行なわれているサバニ帆漕レースの見学に行きました。父が出場していたからです。沖縄本島の西にある座間味島から本島までの海峡を横断するレースで、サバニは沖縄の伝統的な木造の漁船です。帆を張り、パドルでも漕いで進むカヌーです。中学生のチームも出ていました。その時、ハワイからナイノアさんやブルースさん(ナイノアさんの義理のお兄さんで、ホクレア号のナビゲーターのひとり)も来て、父と一緒にレースをしました。
 卒業も間近になり、進学先を考えるようになった頃、行きたい高校は、海が近くにあることが条件でした。それで選んだのが、鎌倉市にある県立七里ヶ浜高校です。2005年に入学しましたが、私の母校は、おそらく日本でもっとも海に近い高校のひとつだと思います。何しろ道を隔てたところが海ですから。よく授業をさぼって海辺にいました。サーフィンクラブがないのが不満でしたが、学校の近所にある江ノ島で活動している湘南アウトリガーカヌークラブに入りました。ハワイから輸入した6人乗りのアウトリガーカヌー(*註4)を、社会人の人たちと一緒に漕いでいました。葉山で活動していた海の先輩たちもいて、学校のクラブではなかったけど、充実したクラブ活動でした。
 高校生になると、将来のことを現実的に考え始めますが、私も漠然と海のことを勉強したいだけじゃなく、ハッキリ何がしたいかを、具体的に考えないといけないと思い始めました。2年生の時、悩んでいたこともあり、両親からハワイへ行くよう勧められ、2週間ほど滞在しました。その頃、父は盛んにハワイに通いながら仕事をしていました。ナイノアさんたちのカヌーの活動を取材しながらサポートしていたそうです。ハワイでは、両親の親友、ニック加藤さんにお世話になりました。ニックさんは、元々は日本人で若い頃にハワイへ移住された方です。ハワイではとても有名な人です。
 そんなつながりがあって、初めてのハワイは充実した体験になりました。でもその時は、ハワイの大学へ行こうと決めきれませんでした。2年生の終わり頃には、何度か行ったことで少しは身近だった沖縄の琉球大学理学部にある海洋生物科に興味を持ち始めていました。そして3年生になり、夏休みになる前のことでした。ハワイからミクロネシアを経由してカヌーが日本に来たのです。ナイノアさんたちが乗っている航海用の大型帆走カヌーです、カヌーには“ホクレア”という名前があります。このカヌーが、私を突然ハワイへと導いてくれるのです。
(つづく)

(2014.05.08)


(*註1:マゼラン艦隊)大航海時代のポルトガルの航海者、探検家のフェルディナンド・マゼランが率いたスペイン艦隊。1522年に史上初の世界一周を果たした。

(*註2:タイガー・エスペリ)ハワイのレジェンドサーファー/カヌービルダー。1946年ハワイ生まれ。75年に復元された古代の外洋航海カヌー「ホクレア号」の初代クルーに抜擢されるも、自分はまだ乗るに値しないと、乗船せずにハワイ文化の振興に貢献。その後、ホクレア号の僚船「マカリイ号」を建造し、日本でも「カマ・ク・ラ号」を建造するため、鎌倉市七里ガ浜を拠点に活動。97年に「ジャパン・ハワイアン・カヌー・アソシエーション」を設立。2005年7月、オアフ島の病院で逝去。「カマ・ク・ラ号」の建造は次世代に託されている。

(*註3:ナイノア・トンプソン)PVS(ポリネシア航海協会)の代表。1953年オアフ島生まれ。海図や羅針盤など航海用の機器を一切使わず、星の位置や海流、風を頼りに航海する伝統的な航海術スターナビゲーション(ウェイ・ファインディングともいう)を復活させた。80年にナビゲーターとしてハワイからタヒチまでの4千キロの航海を成功させた。日本では「星の航海師」として紹介される。2007年におよそ5ヶ月かけてハワイから日本(横浜)までの航海を成し遂げている。

(*註4:アウトリガーカヌー)ポロネシアやミクロネシアなど南太平洋の島々で使われているカヌー。安定性を保つために片側、または両側にアウトリガー(うき)が張り出したようになっているのが特徴。

前の記事へ

過去の記事索引はこちら

COLUMN

Buisiness TODAY” 
東京 鳥 散歩” 
シェルパ斉藤の“ニッポンの良心” 
こんにちはさようならHOLARADIOS〜矢口清治のラジオDJ的日々〜” 
きっこうのハッピー・ゴー・ラッキー人生 〜セカンドライフを社会貢献で楽しむ徒然日記〜
内田正洋 内田沙希 シーカヤックとハワイアンカヌー 海を旅する父娘の物語
ムーンライトジョーカー 三浦麻旅子
スタッフ募集