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内田正洋 内田沙希 シーカヤックとハワイアンカヌー 海を旅する父娘の物語 photo by James Hadde

第4回 海こそがアウトドアだった

 今回は、再び親父の番である。前回(第2回)の私(ワシと読んでくだされ)の話題は、若かりし頃の歩みというか、24歳でサハラ沙漠へと向かう直前までを書いたけど、なぜ海から沙漠へ向かったのかという、その背景についてはほとんど書かなかった。そこで沙漠へ向かう前の前、まだ本格的に海へ出る前の、大学生だった時代、具体的には1975年から77年までの社会背景が、後に沙漠へ向かうきっかけだったんだぜ、という話を書こうと思う。大学2年から4年生になるまでの期間、20歳前後の頃である。その当時、1年のほぼ半分は横須賀の海でカッターを漕ぐという生活をしていたが、残りの半分は学校のある東京の世田谷や、程近い渋谷あたりでシティボーイ?活動に興じていたのだった。

 それで、ここでようやくこの連載のテーマである「海を旅する」という概念を説明したいと思うのだけど、ちょいとばかし哲学的な話になるがお付き合い願いたい。まず、海を旅するというのは、いわゆる普通の船で航海をしても、充分に理解できない世界が含まれる。普通の船での航海でも、もちろん海を旅したことになるかもしれんが、私がいう海の旅というやつとは、少々違う。そこで、海の旅は航海じゃなく「海旅(うみたび)」という言葉を使うことにする。航海と海旅は、似ているようで非なる部分があり、その非なる部分が、実は非常に大事なのだ。

 海旅の世界、その「世界」なる言葉には、空間的なものと時間的なものが含まれている。「世」というのに時間的な意味があることは、みんな知っていることだろう。一方「界」は、空間的なものを意味している。だから、世界ってものには、時間と空間の両面があるわけだ。海旅の世界というのは、海の空間だけじゃなく、海の時間をも旅することを意味している。この、何だかこじつけみたいな話が、ホントは重要だ。海旅ってのは、実際に海を旅しながら、時間的な旅もしているのである。だから普通の航海にプラスされるものがある。連載のタイトルであるシーカヤックやハワイアンカヌー、ホクレア号は、まさにこの海旅をしている。

 さて1975年ってのは、あのベトナム戦争が終結した年。この年にホクレア号も建造された。ベトナム戦争は、アメリカがベトナムに介入して始まった戦争だけど、ベトナム戦争の前からベトナムではずっと戦争が続いていた。日本軍がアメリカ軍と戦争を始めた頃、ベトナムにも日本軍は進軍し、19世紀から続いていたフランスの植民地政策が一旦は終わったかに見えた。ところが、3年半後に日本軍がアメリカ軍に負けた後、アメリカを始めとする連合軍側になったフランスは、旧植民地を取り返すべくベトナムへ進駐しようとして戦争が続いた。さらに連合国が分裂し、当時のソ連(ソビエト連邦、ロシアが中心だった連邦国家で、正確にはソビエト社会主義共和国連邦だ)側とアメリカ側に分かれ、冷戦という名の代理戦争(朝鮮戦争もそうだ)が始まっていた。その結果、まぁ簡単に言うと、ベトナムはソ連側の北ベトナムとアメリカ側の南ベトナムに分けられ、さらにそれを統一するために始まったのがベトナム戦争である。

 そして、南ベトナム軍と一緒にアメリカ軍は戦争をしていたのだけど、ベトナム戦争が終結したのは、アメリカ軍がベトナムから撤退したからである。アメリカ国内では、大学生を始めとする若者たちの間に反戦運動が拡がり、結局アメリカ政府は、撤退せざるを得ない状況になった。撤退したってことは、見方によってはアメリカが北ベトナム側に負けたことにもなる。アメリカ政府なんかは認めたくないだろうけど、建国以来、初めて他国に敗戦したとも言える戦争だったのである。そして、ベトナム戦争が終わった翌年が、アメリカ建国200周年になる年だったという点も見逃せないことだろう。

 1976年になると、私は大学2年から3年に進級した。母校である日本大学は、日大闘争と呼ばれた激しい学生運動があった大学だけど、闘争が終わって5〜6年という歳月が過ぎていた。でも、その名残であるバリケードなんかがあったことは記憶している。とはいえ、私らの世代に学生運動という概念は、すでになかった。大学側に対する不満もたいしてなかった。私らの世代は、シラケ世代などと、後に呼ばれるようになった。

 で、当時の私らの関心はといえば、例えばファッション(流行の服装のことね)であり、私も相当に入れ込んでいた。高校時代のアイビー(アメリカ東部のアイビーリーグと呼ばれる8大学の学生ファッション)から、突如としてヘビーデューティ・アイビー(西海岸の武骨な学生ファッションをそう呼んでいた)なるものになり、それに移行した年が76年だった。男子系雑誌の『ポパイ』が創刊され、アメリカ西海岸の大学キャンパスのファッション・スタイルが一世を風靡し始めた。特にUCLA(カリフォルニア大学ロスアンジェルス校)のロゴが、ファッション・ブランドになるほどだった。でも、そこには単なるファッションじゃなく、ベトナム戦争の終結に当時の西海岸の大学生たちの力が関与していたんだぜ、というようなどこか誇らしい気分もあった。そして、カリフォルニアのサーフィンやスケートボートに代表される文化が、日本の大学生たちにも拡がり、ロングヘアーにヒゲといったキリストさながらの風体をしたヒッピーたちが、都会を出て自然の中を歩き始めていることを知ったのである。

 『ポパイ』よりマイナーだったけど『アウトドア・スポーツ』(後にアウトドアという誌名になった)という雑誌が、登山専門の出版社から創刊されたのも76年だった。『バックパッキング入門』という本も同じ会社から出版された。さらに、すでに人気が高まっていたウエストコースト音楽を代表するようなバンドだったイーグルスが、代表作である『ホテル・カリフォルニア』のアルバムをリリースしたのも76年。彼らが初来日したのも76年だった。バックパッキングという自然の中を歩いて旅する文化がアメリカから移入されると同時に、『ホテル・カリフォルニア』に収録された「ラスト・リゾート」の歌詞にあるような、アメリカ先住民文化への畏敬の思いが、強烈に伝わってきたのも76年だった。そして、世界的な冒険家となる植村直己さんが、単独での北極圏の犬橇1万2000キロの旅を終えた年でもあったし、ホクレア号がハワイ〜タヒチ間の伝統航海に初めて挑戦し成功したのも76年である。建国200年という節目が、何らかの変化をもたらしたのかもしれない。

 当然ながら、大学生の私もウエストコーストに憧れ、バックパッキングやアウトドアといった、当時はまだ意味不明だった文化に憧れ、植村さんのような冒険まで志した。学生運動が、実際の戦争を止めたことも心の片隅に刻み込まれたようだった。当時はまだ意識してなかったけど、今なら1976年の社会現象が、私に大きな影響を与えていたことが分かる。それで77年になり、前回書いたように太平洋へとマグロ延縄実習船での遠洋航海を体験するのだけど、その出航前にある事件が起こった。

 第1回目でも書いたけど、国際的な枠組みである漁業専管水域の設定(今の排他的経済水域の始まり)によって日本の遠洋漁業が終わり始めたのも、この76年から77年だったのである。大学側の直接的な責任じゃないが、私らは卒業しても航海士として乗り込めるマグロ漁船がなくなり、航海士免許の試験で免除されるはずの筆記試験も、突然我が大学だけが免除の指定からはずされた。それで大学に抗議することになり、実習船である日本大学号を学生たちが占拠する事態を引き起こしたのである。「団交だぁ!!!」である。何しろ、実習船の航海士には日大闘争の現場にいた先輩たちもいて、私らの抗議はまっとうであるというので、占拠した上に学部長あての書面まで堂々と書いて出した。それで、学部長もしぶしぶ?理解を示し、何と年間授業料を免除してくれたのである。実習費は実費なので払ったが、授業料が返却されたから、私らは気分良く、そして意気揚々と航海に出ることができたのだった。

 そんな動きを経験したことで、当時の社会に足りなかった自由への熱望が現実化したじゃんと、私は受け止めていた。自由を勝ち取ったぜ、という感じかな。当時の日本は、まだまだ自由感が少なかったのである。頭にバンダナを巻いて学校に行ったら、守衛のおじさんに怒られたことだってあった。まぁ、今もまだ自由感が足りないかもしれないけど、当時と今とは自由の質が違っていた気がする。ちなみに直前まで首相だった田中(角栄)さん!が、金の問題で逮捕される大事件が起こったのも76年である。日本の風土に、大正時代以来の自由な空気が戻り始めたのが、この頃じゃなかろうかとさえ思うのだ。実際の大正時代はもちろん知らんけど、大正ロマンとか大正デモクラシーといった解放感を感じる言葉に通じるものがあったように思える。これからは自由に生きるぜ、ということだけは確実に意識し始めていた。そして太平洋へ出て行き、自由感や解放感を経験することになるのだった。

 70年代半ばの空気は、社会の拘束感から逃れられる具体的な方法があるってことを私に教えていた。「冒険」である。その代表的存在が、植村直己さんだった。北極圏1万2000キロの次は、78年に行なわれた犬橇で北極点への到達。そして踵を返すようにグリーンランドを縦断した。その冒険は世界的に評価され、ナショナルジオグラフィック誌の表紙にもなり、グリーンランド縦断の到達目標にした峰には、後に彼の名前も付けられた(ヌナタックウエムラ)。それで、冒険っていうものが自分たちを自由にするんじゃねーの?と、なぜか私には思えたのである。

 ところが国内では、彼の冒険を評価する一方で、批判も強かった。理由は、冒険が危ないからである。本人が危険に晒されるという危なさじゃなく、若者が冒険を目指すことで、日本という国家に危機が生じるんじゃないかというような危なさだったと、今なら思える。国家の主権者は国民ではあるけれど、その国民が冒険的だと、国家の運営が危うくなるという危機感と言えばいいかもしれん。要は、冒険的な国民は、政府に盾突くようになるといった感じか。憲法的にはおかしな話ではあるけど、国民の自由を阻害する空気は、まだ充分にあり、冒険を否定する社会でもあった。

 冒険は無謀な行為とは違うのだけど、一見すると、まぁ無謀に見えるわな。でも、その無謀に見えるところの大部分を克服しているからこそ、冒険が可能になる。だから冒険にはノウハウや装備が必要だし、お金も必要だ。そのことを私らの世代に教えてくれたのがバックパッキングであり、その後にアウトドアと称されるようになる文化である。とはいえ、今(2014年)の日本では、辞書に日本語としてのアウトドアが載るようにはなってはいるものの、アウトドア文化がまだ正確に捉えきれていないことも事実。でも、ようやくその萌芽があるんだぜ、ということが言える時代にはなっているな。

 それで、アウトドアというのは一体何なのか、である。ここが理解できると、前述した海旅との関連が分かってくる。アウトドアが何かってことは、1976年以来ずっと考えていた。日本語になったアウトドアは、野外や屋外である。でも、私が考えるアウトドアはそうじゃなかった。野外は家の外だったり、郊外だったり、野原だったりするが、そんな近い感じのところじゃないはずだ。でも、日本語で説明できる適切な言葉が、30年以上におよんで私には見つけられなかったのである。

 アウトドアを意味する日本語に気付いたのは、つい数年前のことだ。アウトドアというのは、大自然の中を歩くように旅をすることであり、旅をしなきゃアウトドアじゃない。それは間違いない。だからアウトドア=大自然であるという感じだ。でも、日本列島には大自然と呼べるような規模の自然はない。列島内にアウトドアがないから、私は海へ出ることになって、さらには沙漠へ向かった。そして、シーカヤックに出会い、今度は海旅をするようになった。要は、単純に大自然を求めていたわけだが、それでもアウトドアという言葉とのギャップが、どうしても埋まらなかった。どうも違うんだなぁ、と。アウトドアは大自然というだけじゃないんだよなぁ、と。

 シーカヤックというのは手漕ぎの小舟である。シーカヤックの具体的な話は、とりあえず今後の話題に取って置くが、アウトドアとは何かいな?というと、気付いた言葉は何と「環境」だったのである。今の日本では、環境なる言葉が盛んに使われるけど、環境って一言でどういう意味かと問われたら、意外に誰も答えられない。つまり、曖昧に使っている。英語のエンバイロンメント(ENVIRONMENT)という言葉が環境だと思われているけど、カタカナ語好きの日本社会が、環境をエンバイロンメントにすることはほとんどない。それってどこかしっくりこないからだろう。それで私は調べたのだ。エンバイロンメントを翻訳した頃のことを。すると最初は「環象」と訳していたらしい。環象は、まだ一部の辞書に載ってはいるけど、ほとんど死語だ。でも、周囲を取り巻く「環」とそこにある事象の「象」であるとすれば、エンバイロンメントじゃんと分かる。

 じゃあ、環境は何なんだ?である。辞書にはこう書いてあったのだ。「四囲の外界」だと。私は強烈に驚いたのである。
「四囲の外界かぁ、なぁぁぁーるほどぉぉぉ!!!」だったのだ。
環境は、外界なのである。外の世界のことだ。そこでさらにピーンと閃いた。外界、それってアウトドアじゃん。そう、アウトドアというのは大自然というより外界だったのである。さらには、環境のことでもあったのだ。長年の疑問が一気に氷解する瞬間の、その興奮ときたら、それこそ筆舌に尽くし難い。皆さん、アウトドアというのは環境のことなのですぞ。アウトドアは外界なのですぞ。この関係が理解できたことで、私の頭の中は、実にすっきりしたのである。だから、日本語の辞書にあるアウトドアの項には、外界や環境という文字を入れなければならない。84年に植村さんが行方不明になる前、彼はいわゆるアウトドアスクールの設立を考えていたけど、それで納得できたのだった。アウトドアスクールは、環境学校なのだ。ちなみに、外界は哲学用語でもあり、意識から独立してその外部に存在するすべてのもの、という意味があるらしい。でも、よく分からない。ところがアウトドアとなれば、なぜか分かりやすい。

 一旦、頭がすっきりした状態になると、次から次へと疑問が消えていく。アウトドアが外界であれば、外の世界だからして、外の時間と空間であり、そこを旅するのがアウトドア・アクティビティだったのである。アウトドア活動は外界活動であり、野外活動じゃないのだ。外界を環境に置き換えれば、アウトドア活動は環境活動になる。最近改正された新しい法律(環境教育等促進法)にも使われる環境教育なんていう言葉は、アウトドア・エデュケーションなのである。この相関関係に、まだ日本社会は気付いていない。環境がアウトドアであるなら、当然ながらアウトドア活動が環境問題の解決には必要になる。何しろアウトドアの問題だからである。環境教育をやりたいなら、アウトドアで教育しなければならない。外界での教育である。環境省だってアウトドア省となる。アウトドアは外界、そして環境。かなり哲学的な話だな。

 ということで、シーカヤックやハワイアンカヌー(正確に言うとポリネシア式航海カヌーかな)による海旅は、太古のカヤックやカヌーを模した船を使った外界への旅であることが分かる。安全面は慎重に考慮しながらも、太古の人たちと同じ方式で、海の時間と空間を旅する活動だとハッキリ分かる。海は、人類にとって永遠に外界だ。何しろ人は、身ひとつで海では生きていけない。さらに言うなら、日本列島に暮らす人々にとっても四囲は海である。日本列島における最大の四囲、それが海である。日本列島の環境というのは、海を抜きには考えられないわけだ。ということは、海旅することこそが環境を理解する活動になり、それを促進させるには環境教育、つまりは海旅教育が必要になるということだ。

 すると、海旅教育なんて誰がやってんの?となる。日本におけるシーカヤック活動は、海旅教育なのだ。ハワイにおけるホクレア号の活動も同じ。ハワイの四囲だって海だからである。そのホクレア号が世界周航をしている現在、それは世界的に海旅教育=環境教育が必要だというメッセージとなるのだ。海というのは、陸に住んでいるすべての人類にとっても四囲の外界なのである。となると、例えば海だったところを埋め立てる行為は、外界の破壊になる。こういった外界の破壊は、人類の生息域を拡げるためだろうけど、それは海という外界の役割をあまりに知らないが故の行為だと、まぁ断じたいわけである。

 ということで、少々長くなったから今回は終わりにしよう。さて、次回は再び娘の登場になるけど、彼女は今、太平洋のトンガからニュージーランドへ向かって海旅をしている。ニュージーランドには、ポリネシア語(マオリ語)の国名もあり、そちらはアオテアロアという。長く白い雲の大地といった意味だ。彼女たちの海旅は、まだまだ続くが、アオテアロアで仕切り直しをするような気配もある。アオテアロアから先の海は、ホクレア号の連中にとっては未知の海であるからだ。

(2014.11.02)

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