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内田正洋 内田沙希 シーカヤックとハワイアンカヌー 海を旅する父娘の物語 photo by James Hadde

第7回 初めての太平洋横断

 前回は、2012年に私(わたし)がハワイからアオテアロア(ニュージーランド)に旅立つ、というところで終わりました。その時の決断も自分にとっては、とても大きなものでした。ハワイにはもう学生として戻れない、これからはカヌーと共に生きるしかないんだ、ということをリアルに意識した時でした。
 
 2012年9月、空路でアオテアロアのオークランドへ飛び、新しく建造されてハワイに寄贈されるカヌー、ヒキアナリア号と出会いました。この新しいカヌーをタヒチ経由でハワイまで回航する約8,000キロの旅がこれから待っているのです。クルーのほとんどは、タヒチで交代するのですが、私はハワイまで継続して航海することになりました。
 
 この、初めての太平洋横断の旅が、私にとって大海原を越える旅の始まりです。この時は、私が最年少のクルーでした。ヒキアナリア号にとっても初めての航海です。ヒキアナリア号は、ホクレア号の姉妹カヌーになる予定なのですが、まだ赤ちゃんカヌーです。この出会いからずっと、ヒキアナリア号とは不思議な絆があるような気が、今はしています。

 この旅には、今まで一緒にトレーニングしてきた、カプ・ナ・ケイキの仲間たちは選ばれませんでした。ほとんどの仲間が、自分より長くトレーニングをしてきたのにも関わらず、私だけが選ばれました。なので、少し申し訳ない気持ちがありました。でも、仲間全員が、私が旅立つ日も見送りにきて、応援してくれました。みんなのためにも、自分はがんばんなきゃ、と強く思っていました。
 
 オークランドに着いてからは、ヒキアナリア号の最終調整と準備がすぐに始まりました。私は日本人なので、アメリカに再入国する際、カヌーで入国するためのビザ申請もしなければなりません。それに、今回のほとんどのクルーが、今まで一緒にカヌーに乗ったことがない人たちです。私は10時から2時のワッチ(見張り)になりました。いわゆる見張り番のシフトです。朝の10時から昼の2時、夜の10時から朝方の2時まで、1日2回、合計8時間のシフトです。普通の船もそういったシフトで動くそうです。
 
 私のワッチ時のキャプテンは、ケアロハ・ホゥさんです。彼はもう20年以上もカヌー航海をしているベテランで、私の父親と同年代のおじさんです。普段は仕事でタグボートに乗っている船乗りです。初めはとてもぶっきらぼうにものを言う人だったので、怖い人かなと思っていました。だから私も、緊張しながら彼の話を正確に聞いて、注意深く行動していました。
 
 ところが作業をしているうちに、私のことをいつも気づかってくれてるんだ、ということがハッキリ分かりました。色々なことを、ズケズケとぶっきらぼうに言うのですが、私がクルーの輪に溶け込めるようにしてくれていたから、と気付いたのです。

 出航する前には、本当に信頼できる人なんだなぁと分かっていました。キャプテンのブルース・ブランケンフェルドさんは、それが分かっていたので、私をケアロハさんのワッチにしたんだと、後から教えてくれました。10時〜2時のワッチには、他にブラッド・ウォングとカレオ・ウォングがメンバーです(どちらも名字がウォングですが、兄弟ではありません)。ブラッドは年上なのですが、クルー歴は私より短く、私と同じように今回が初めての大航海です。カレオは、ブラッドよりもさらに少し年上で、キャプテンの経験などもある若いベテランクルーです。カレオとは、それまでほとんど話をしたことがありませんでした。
 
 オークランド到着から1週間ほどが過ぎた頃、訓練航海をしました。オークランドの周辺海域での訓練です。ヒキアナリア号はホクレア号とまた違う性格のカヌーです。見た目は伝統的なカタチなのですが、電気モーターで自走ができ、ホクレア号よりもモダンで伴走船がいりません。アオテアロアは、まだ寒かったのですが、どこか日本と似ていて、日本よりも自然を感じられる場所だと感じていました。
 
 訓練航海も無事終わり、いよいよ最初の目的地、タヒチまでの航海がスタートします。やはり、初めての長距離航海はとても緊張していました。忘れられないのは、ケアロハさんに
「長い航海ってどんな感じなの?」
と聞きました。すると
「なーに、今までのトレーニングと何も変わんないよ。ただ長いだけさ」
と、ごく普通の返事が戻ってきました。また、タヒチまでの航海は、ヒキアナリア号と同型でお姉さんのようなカヌーのファアファイテ号とも一緒でした。ファアファイテ号はタヒチから来ていたカヌーです。

 実は、ヒキアナリア号が作られる前、同型のカヌーが合計で7隻建造されました。その7隻は2011年に、ポリネシア圏の多くの島々を経由しながら、アメリカ大陸沿岸を含め、東太平洋を「パシフィック・ボイジャー(太平の航海者)」として航海しました。そのうちの1隻がファアファイテ号です。彼らは当時オークランドでカヌーを修理しており、タヒチまで帰るところでした。そこで、ヒキアナリア号と共に航海をしようということになりました。
 
 オークランドには2週間ほどの滞在でした。そこで友だちになった少女がいたのですが、出航の見送りの時、走りながら手を振ってくれました。それを見ていたら自然に涙が出ていました。航海に旅立つのは、絶対に戻れるという保証がないことなのだと、知らず知らずのうちに気付いていたかもしれません。今になって、そう思います。陸が完全に見えなくなった時は、相当に切ない気持ちになっていました。
 
 その後は、カヌーのすべてを吸収するために必死で動きました。やはり、すべてが訓練でやっていたことでした。しかし、そんな行動が、生活の一部になるのは、また違うってことを知りました。ケアロハさんは、寒いのにも関わらずマロ(ハワイ式のふんどし)だけで過ごしていました。それだけ気持ちが熱い人なんでしょう、きっと。
 
 彼は、周りの状況がとてもよく見えてるし、他の人が気付かないことにも真っ先に気付くので、私の気付かなさに、逆に気付かせてもらいました。厳しく、様々なことを命令されましたが、彼が私のワッチ・キャプテンでなかったら、今の自分にはなれなかったと思えるほど学ばせてもらいました。彼は、私のハワイの父親のような存在です。
 
 ハワイまでの航海は、決して簡単ではありませんでした。アオテアロアを出る時は、まだ寒くてダウンジャケットを着込み、防水パンツの下にはフリースのパンツ、その下にはウールのアンダーウェアを着用していました。靴下も2枚重ねし、ゴム製の長靴を履いていました。
 
 風雨が強い日は、雨が顔に突き刺さる感じです。私たちの夜のワッチは孤独でした。他のワッチの人は、夜10時から朝2時までは寝ているからです。起きているのは、私たち4人とキャプテン・ブルースだけでした。キャプテン・ブルースは、ナビゲーターでもありますから、ほとんど起きています。そうしないとカヌーの位置が分からなくなるからです。ホクレア号の本来の伝統航海中は、ナビゲーターはまったくといっていいほど眠りません。

 そんな状況だったので、私のワッチは仲間意識がとても強くなりました。ブラッドは、アウトリガーカヌーを漕ぐパドラーで、舵を取るのがとても上手く、彼から色々なコツを教えてもらいました。始めはひとりで舵を取るのは難しく、青アザまで作っていましたが、何日かすると少しずつ慣れていき、ひとりで長い時間、舵を持てるようになりました。途中からはベテランのクルーたちからも褒められるようになりました。私のような背が低い女子が、ひとりで舵を握れていたのか、不思議だったみたいです。舵取りは力じゃなくコツがあることが分かりました。

 カレオは、ほとんどふざけていました。いつもジョークを言ってるのですが、彼にも感謝しています。どこかで私は、緊張し過ぎていたようで、楽しめる時にも緊張していたようなのです。彼のおかげで、そのオンとオフが分かるようになりました。彼はハワイ語もペラペラです。
 
 この航海で、もっとも思い出に残ったのは、私たち4人が英語、日本語、ハワイ語をごちゃ混ぜにした言葉を作り出し、話していたことです。今でも、そんな会話を、彼らとならしています。私たちは、本当にうまくバランスがとれたワッチでした。それまでたくさんのワッチをやってきましたが、この時のメンバーと過ごした時間は、忘れられません。陸に上がってからも、カレオとブラッドは兄のようです。今でも一緒にサーフィンをしたり、航海術の勉強をしたり、アウトリガーカヌーをしたりしています。
 
 この初めての大航海で、カヌーの上で生きるための基本中の基本を学びました。そして、キャプテン・ブルースからは、ナビゲーションの方法をたくさん学びました。自然が教えてくれる様々なサインは、見える人には見えるのです。この伝統的なナビゲーションですが、この時に芯からもっともっと学びたい、これができるようになりたいと強く思いました。
 
 キャプテン・ブルースから伝えてもらうことは、非常に興味深いものです。彼は2009年にパルミラ環礁(ハワイから南南西に1600キロ)から14日間をかけて、ハワイに戻りました。その時も、キャプテン兼ナビゲーターとしてカヌーに乗っていました。14日間、1度も日の光も星もほとんど見えない状況でした。でも彼は、ハワイまで見事なナビゲーションをしました。何だか、生きる奇跡みたいな人です。彼から伝えてもらう話はどれも夢のような世界でした。
 
 アオテアロアからは、18日間海の上にいました。タヒチ島が見えた時は、本当に興奮しました。時間通りにカヌーを航海させることが目的だったので、時折GPSを使いながら位置を確認していましたが、なるべく使わないようにして航海をしていました。キャプテン・ブルースが
「あのあたりに島が見えるはずだぞ」
と言ったので、カレオと探していたら、すでにもうかなり大きく見えていました。魔法のような言葉でした。そして、タヒチ島が見えた日の夜は、不思議な光景に包まれました。特に、まん丸なお月様が出ていたのですが、その横に菱形の雲がたくさん並んでいたのです。幻想的でした。夜になっても、みんなで入港するための準備や掃除をしていました。でも、そんな空を見上げると、もうこの旅も終わるんだなとしみじみ感じていました。といっても、私はさらにタヒチからハワイまで継続して航海することになります。

 タヒチに着いてからは、また次の航海に向けての準備がすぐに始まりました。そのうちに、アオテアロア〜タヒチ間のクルーはハワイへ空路で戻りました。彼らと別れをするのは本当に辛かったです。
 
 この時の航海は、私の初めての大きい旅だったので、今も強く心に残っています。私たちカヌークルーは、1回1回の旅を常に最初で最後の旅だと思っています。全員が同じクルーで行けることがほとんどないからです。
 
 私はこの時のクルーたちに教えてもらったすべてを、次のクルーに引き継げるよう、次の航海では一歩でも二歩でも率先して動こうと心の中で誓っていました。
 次回は、タヒチからハワイまでの航海のことを書きますね。

(2015.03.11)

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