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内田正洋 内田沙希 シーカヤックとハワイアンカヌー 海を旅する父娘の物語 photo by James Hadde

第8回 海気という言葉を知ってるか?

 さて、再び親父の出番がやって来たな。前回は、海に生きるというテーマだったが、今回はさらに深く突っ込んだテーマである。何の話かというと「気」というものについて考えるのだ。したがって、かなりややこしい話になるけど、我慢して読んでほしい。

 日本語には、天気や空気といった自然に関する言葉に「気」という字が使われることが多い。外気、寒気、湿気、磁気、蒸気、暑気、大気、電気、熱気、暖気、湯気なんが、すぐに頭に浮かぶ。また、人の気持ちというように、心の中から出てくるような実体の分からないものにも「気」という字が多く使われる。呆気、嫌気、色気、陰気、内気、浮気、運気、鋭気や英気、怖気、堅気、活気、鬼気、侠気に狂気、豪気、根気、殺気、正気、人気、生気、短気、熱気、病気、本気、勇気等々、こっちはかなり多いな。
 この「気」というものを正しく捉えるのは、相当に難しいことのようだ。何しろ見えないものだからして説明が難しい。辞書にだって様々な意味合いが書いてある。天地を満たし宇宙を構成する基本のもの!とか、生命の原動力!とか、心の動きを包括的に表わすとか、見えなくてもその場を包んでいるものとか、ほとんど意味不明なことしか示されていない。「気」ってどこにある?なんて質問ができないというか、聞いても誰も答えられんのかもしれん。

 とはいうものの、「気」があるってことの「気配」は、日本語が分かる人なら一応は理解している。でも、それを具体的に、さらには科学的に考えることは、ほとんどしない。空気や天気も、見えないけど、天気予報はみんな毎日のように情報として聞いてるし、人は常に空気を吸ったり吐いたりして生きている。
 長らくシーカヤックによる海旅を続けてきて、ある時私(ワシと読んでね)は、「海気」という言葉の存在に、それこそ「気」付いた瞬間があった。それに気付いた時の驚きは、半端なものじゃなかった。「なんだ、なんだ、ちゃんと日本語があったじゃん」と、「呆気」に取られたのである。なので、今回はその「海気」を含めた「気」について考えてみる。ちなみに「海気」とは、海辺の空気、としか辞書には書かれていない。でも、それだけじゃないから、話題になるわけだ。もちろん、他の言語に海気なんて言葉はない、と思う。少なくとも英語にはないな。

 シーカヤックで海旅をしている途上の実際は、海の天気というか、気象や海象を判断する場面を日々の暮らしの中に取り入れている。常に気象、海象を気にしながら、海へ出るか出ないか、陸に上がるか、もっと進むかといった判断をしている。昼間の海上にいる時はもちろんだけど、夜になって海岸にテントを張って寝ている時も、間断なくそのことを「気」にしている。夢の中にだって天気の判断をする自分が出てくるほどだ。
 明日の天気、いやもっと具体的に、明朝6時の、あの岬を越えた先の天気はどうだろうか?とか、お昼頃にはどう変わるだろうか?とか、夕方の何時までに天気に変化がなかったら、あの浜まで行けるな、とかである。

 もちろんラジオなどからの天気予報や気象通報も気にするし、最近では30分ごとに更新される海上保安庁の沿岸域情報提供システム(MICS)からの情報を携帯電話で取ることも多い。とはいえ、その場の、その時間の海の具合というのは、目前の様子と、自分の中の判断にかかっている。その判断を決断にすることは、なかなか説明できないもので、そんな判断を「海を読む」などと、それまで私は表現していた。海気という言葉を知る前までは。

 それで、まずは「気」というものから考えてみるんだけど、天地を満たし宇宙を構成する基本ってのは、エネルギーのことじゃなかろうか。エネルギーは、日本語だと「気力」のことである。活力や精力ともいわれるが、相対性理論によると、質量そのものもエネルギーであると、辞書に書いてある。つまり、自然界にある様々な気力(エネルギー)が、身体に作用しているってことが、何となく分かってくる。
 その身体は「カラダ」であるが、それは「カラ」だ!漢字にすると「殻」とか「柄」なんだろうな。人間の外側を包んで構成しているもの、それが「カラダ」。つまりは骨と皮がカラである。
 明治天皇の御製(和歌)で、後に昭和天皇も引用なされた「四方の海 みなはらからと思ふ世に など波風の立ち騒ぐらむ」という有名な言葉があるけど、その「はらから(同胞)」の「カラ」もそうだろう。ナキガラ(亡骸)もやはりそうなんだろう。

 この概念は、カヤックだと実に分かりやすい。元来、カヤックは木の骨組みに動物の皮革を被せた構造体だからして、骨と皮である。その骨と皮が、カヤック乗りの「カラ」である。そこに人が乗り込む(下半身をカヤックに同化させる)ことで、カヤックには腕や頭や内臓までが加わり、一種の水上動物が生まれる。人の下半身は、カラであるカヤックとをつなぐ関節のような役割になる。だから、カヤックという構造体を考えた太古の人たちは、カラという概念を知っていたんだろうな、とさえ思える。移動するための推進力は、腕を延長させるパドルを使うから、パドルはアーム・エクステンションだ、などと私はよく表現する。

 そして、カラの中にココロ(心)があるのだけど、ココロとは何だろう? カラダとココロはつながっているとよく言われる。カラであるカラダとつながっているココロってのは、筋肉や内臓や血液かもしれん。つまりカラダの内部にあるモノが、ココロじゃなかろうか。そう考えるとココロは、凝るもの、ということかもしれない。凝るってのは、固まるモノ。煮凝りのように、冷えたら固まるモノ。肩が凝るとか、血液だって外に出ると固まる。内臓だってそうだ。だから、ココロってのは、冷えたら固まるものになるんじゃなかろーか? 胸騒ぎとか、血の巡りとか、腹が立つとか、内臓や血が固くなりそうな感覚の表現があるのは、ココロが何かってことを教えている。ココロってのは、実体のある物質というか、内臓や血のようなモノなんだろうな、きっと。

 とはいっても、心掛けるとか、心が晴れるとか、心が籠るとか、心が折れるとか、何だか抽象的な意味でもココロは動く。ココロの中の動きを脳が関知し、日本語を理解する人は、それを言葉にできるんだろう。ココロにはその中に、何かがある。でも、そりゃ何じゃ?である。モノであるココロの中にあるものって考えると、うーん、あっ!スピリットかぁ、と連想する。スピリットは、霊やら魂である。ココロの中には、霊やら魂があるってことかもしれん。その霊や魂が、ココロを掛けたり、晴れさせたり、籠もらせたり、折ったりするんだろうか。
 人には骨と皮といったカラがあり、その中に固くなったら凝るココロがあり、そのココロの中に、霊や魂があることになるわけだ。うん、面白い(自分で言うのもなんだが)。その霊や魂によって、モノが動いてコト(事象)になるには、コト(言葉)が必要になる。コトは事であり言でもあり、だからコトダマ(言霊)っていう言葉がある。そこで今度は、霊も魂も、タマじゃんってことに気付く。ははぁ、カラ(身体)、ココロ(心)、タマ(魂)という相関関係が分かってきたぜ。

 じゃあ、天地を満たし宇宙を構成する基本である、気というエネルギーは、人や自然にどう作用しているかだ。この話題、何だか科学的な話のようだけど、まったくそうじゃないよ。単なる私の思い付きであるから間違えんでな。それで、分かりやすいのは気圧。気圧は、気の圧力と考えればいい。大気だけじゃなく、もっと広い意味での気の圧力。

 普通、天気が変わるのは気圧が変わるからだ。風などは、気圧の差が大気を動かす現象だ。ところが人が集まると、人の気圧によっても気は変わる。その場の空気が変わるとか、空気が読めないってのも、そういうことだろう。人の気圧が自然を変えることは、日本語の中でも理解されている。

 また、エネルギーを作り出すために、例えば発電ってのがある。発電はエネルギー(気力)を生み出す。その気力は電気と呼ばれる。何だかシャレのようだけど、実際にそうだな。電気エネルギーを電気気力と書けば、分かりやすい。対して、自然エネルギーは自然気力になるわな。
 それで、海気の話。海気は海辺の空気という意味のようだけど、具体的には沿岸域の空気だろう。陸に近い海側の空気と考えればいいと思うのだ。海の上にいなければ、海気は感じられない。すぐ近くに陸があっても、陸にいたんじゃ海気は分からない。

 現実的にいえば、シーカヤックで海にいる時にしか海気は感じられないということだ。他の手段じゃ、なかなか感じられないから、海気という言葉が死語のようになった。つまり、今の日本人が忘れてしまった言葉だから、そういう気を感じる場面にいることがなくなったということになるな。だから、シーカヤックを漕ぐ連中に「海気」の話をすると、みんな即座に理解するから面白い。海旅をしている連中なら分かる言葉なのだ。
 シーカヤックじゃなく、普通の舟であっても海気を感じて良さそうだけど、それを感じないのは、自然気力で舟を動かさないからだ、という推論も成り立つ。エンジン(内燃機関や外燃機関)を使うようになり、日本人は海気を忘れるようになった。つまり、手漕ぎや帆で海を動いていた時代の言葉、それが海気だってことが分かってくる。

 じゃあ、海気ってのがどういうものかを具体的に考えると、手漕ぎと帆という人の気力と風の気力で動くことを考えれば分かるかもしれん。手漕ぎの場合、進みたい方向に行く時の障害になるのは、主に潮の流れと風である。特に風には注意を払っている。強い逆風に向かうことは非常に疲れるし、ほとんど進まないから、進む方向を変える。変えながらも何とか目的地を目指したり、風が落ちたりするのを待つ。風が強いということは、波が大きくなるという変化もある。
 潮の流れは、潮流(海流じゃないよ)というけど、これは時間によって流れが変わるから、流れが変わるまで待つことになる。潮流によって波が起ることもある。強い潮流と強い風が、相対する時は、三角波が逆巻くように大きくなり、進むどころか転覆を覚悟しなければならないこともある。そういうのを「激浪(げきろう)」と呼ぶけど、これもほとんど死語だな。だから、これらの障害を避けるために、風待ちとか潮待ちといった言葉が生まれ、海気によって航海の日程が変化していた。つまり、海気は海のエネルギーを感じるということなんだな。海のエネルギーは、海の気力だ。その気力に舟人は海気を感じ、言葉にしてきたんじゃなかろーか?

 船乗りになろうという教育を受ける時、今はどうか知らないが、かつては金科玉条のように教えられていた言葉がある。私も学生の頃、その言葉を習った。それは以下のような言葉で、シーマンシップを教える言葉。大正時代の日本海軍で創作されたという代物だけど、今もなお通用すると私は思っている。
 「スマートで、目先が利いて、几帳面、負けじ魂、これぞ船乗り」
 というのである。最後にあるのが魂である。タマである。負けないというタマだ。勝とうというタマじゃなく、負けないというタマである。海の気力に負けないのが船乗りのタマ。なぜなら海の気力には決して勝てないからである。でも負けないことはできる。それが、負けじ魂という言葉になっている。

 海の気力に負けないことを覚えていくこと、それが海気を感じ、海気を知るということにつながっていくという順番だろうな。海気が海の気力だと分かれば、天気は天の気力、空気は空の気力ってことじゃん。勇気は気力が奮い立つのだし、根源に迫るような気力が本気だってことが理解できてくる。こういった流れで表現すると、見えない「気」が見えてくるわな。

 太平洋を帆走カヌーで海旅しているポリネシアやミクロネシアの連中なら、沿岸域だけじゃなく大洋のど真ん中でも海気を感じているに違いない。海気という言葉を意識した上で、彼らの動きを考えたり見たりすると、彼らが海気を感じているんだろうな、ってのが客観的に見えてくる。それを間近に見て、自分も当事者になっている娘もまた、いつの間にか海気を感じているようだ。

 ということで、気や海気についての、ややこしい話はここいらで終わろう。そろそろ気力が落ちてきたのである。
 で、次回は再び太平洋の海気を感じながら生きていこうと考えている娘の番になる。おそらくアオテアロア(ニュージーランド)からの報告になるんだろうな。

(2015.04.13)

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