今年9月、日本ラグビーの代表チームが、ワールドカップ2015イングランド大会で大活躍してくれた。それを受け、国内でのラグビー人気が急上昇している。私(ワシと読んでね)としては、実に嬉しい状況である。4年後のワールドカップ日本開催に向け、ラグビーという競技が持つ精神性が日本を席巻してくれると予感するだけでも、実に嬉しい。
世界に衝撃を与えた南アフリカ戦での、ノーサイド寸前のトライ。スコットランド戦では負けたけど、後半10分までの押し具合。次のサモア戦には勝利し、さらにボーナスポイント差でベスト8へ行けないことが分かった後でも、最終戦のアメリカに勝利した日本代表チーム。世界のラグビーファンが、このチームの実力の高さを認めたことは間違いないし、日本ラグビーが世界のトップクラスにあるということが実証されたことは、本当に嬉しい限りである。
南アフリカ戦に勝利した時、ニュージーランド(アオテアロア)にいた娘からSNSで、なぜか私が祝福され、親父からも祝福の電話があった。その勝利に私が何ら貢献したわけもないから「何で?」とは思ったが、花園ラガーだったことの誇らしさを、事あるごとに吹聴していたからだろう。確かに、私は花園に出場した後の人生で、あの経験を忘れることは決してなかった。時折「ラグビーってのはよぉー!!!」的な、偉そうな話もしていた。だから、ラグビーという競技が私の人格形成につながっていたことを、身近な肉親たちは何となく知っていたんだなぁーと分かり、かなり感慨深かった。日本代表チームには、実に感謝している。
私が花園に出場したのは、昭和48年(1973年)1月1日に始まった第52回全国高等学校ラグビーフットボール大会だった。所属していたのは山口県立大津高校ラグビー部。1回戦は清水南高校に勝利し、2回戦ではその年の優勝校となった目黒高校と対戦し敗退したが、10得点をあげ、その大会では目黒高校に対して最多得点を得た(当時の得点で、2トライ1コンバージョン)。
その時の私は2年生で、チームメンバーは3年生がわずか4人。2年生が10人で、それ以外は補欠を含め1年生という陣容だった。2年生になった時、ラグビー部員は14人しかおらず、新入生を勧誘してなんとか15人を揃え、その年の花園を目指した。目指そうと強く宣言したのが、その4人の3年生だった。そして、弱小だと思っていた我がチームは、春の山口県大会からずっと連戦連勝だったのである。当時は西中国地方(山口、広島、島根、鳥取)の代表1校しか花園に出場できず、その代表になってしまったのである。創部以来、初めての花園だった。3年生と2年生でバックスのポジションは固定されていて、フォワードに1年生が1人だけ入ることになっていた。私はバックス。11番(左ウイング)で、花園では合計3トライした。私らチームの両ウイングは、やけに足が速かったのである。
3年生になると、一応は進学校だったので部活動を引退して、受検に備えることになっていた。とはいえ、ラグビー部の3年生は、前年の花園出場経験によってなかなか引退できず、進級した2年生を育てて2回目の花園出場を目指そうとはした。私は15番(フルバック)になった。で、結果は県の決勝で敗退し、2度目の花園出場は果たせなかった。受検勉強と部活動の両立は、かなり難しいものだったんだろう。とはいえ、私はラグビーを優先していた。関西の、ある大学にラグビーでの推薦枠があったことも関係していたし、大学でラグビーを続けるか、マグロ船乗りになる夢に賭けるかが、私にはまだ決められないでいた。結局のところ、花園出場はかなわず、船乗りになる進路を選んだのではあるが。
私が卒業した大津高校、今は大津緑洋高校という。市内(山口県長門市)にある水産高校と農業高校の3校が合併して開学され、キャンパスは今も3校分ある。私らが卒業して数年後に校庭が拡がり、そこにラグビー場ができた。そのおかげか、後輩たちは花園常連校になった。ベスト4まで勝ち上がったこともある。今やラグビーの伝統校という評価もあるようだ。ユニフォームは、私らが初めて花園に出場した時に考えた色使い(グリーンとイエロー)が、今も継承されている。
長々とラグビーの話になったけど、私がいわゆるアウトドアの世界に入るきっかけに、まずはラグビーがあったことは、これまで書いてなかったことだな。今や世界的なアウトドアウェアメーカーであるアメリカのパタゴニア社だけど、当初のウェアビジネスは、クライミング用にラグビージャージをイギリスなどから輸入販売し、その後に自社の製品を作って販売し始めたのである。この製品化で、私の中でラグビーとアウトドアとがつながり、私はアウトドアの世界を信用し、信奉し始めたのだった。「ははぁ、アウトドアってのは、ラグビーが分かってる世界なんじゃん」と思ったのである。
雑誌で知っていたパタゴニア創業者のイヴォン・シュイナード氏を、もちろんその時にリスペクトし、後に彼には色々と世話になることにもなった。パタゴニアの製品には、スタンダップ・ショーツという半ズボンまであった。自立するぐらい強力な布で作られたショーツである。私は、そんなパタゴニアというメーカーを牽引するイヴォンのセンスの虜になっていた。さらに、当時そのパタゴニア製品を下請けとして作っていたのが、モンベルというフランス語名を掲げた大阪のメーカーだった。パタゴニア製品の縫製がしっかりしていたのは、そのモンベルのおかげでもあった。パタゴニアとモンベルという組み合わせが、私にとっての本格的なアウトドアへの傾倒の始まりだった。パタゴニアは創業が1973年。モンベルは1975年。両社共に40年以上も継続しているし、今やアウトドアウェアが、一般社会にも受け入れられる時代になっているのは、両社のアウトドア文化に対する貢献度が高いからである。
アウトドアという言葉が外界を意味することは、これまでも何度か書いてきたけど、1979年からほとんど海外で仕事をしていた私には、海外=アウトドアでもあった。いや、正確には海外の自然がアウトドアだった。特に、日本にはない沙漠という自然、それが私にとってのアウトドアだった。沙漠は、まさに外界でありアウトドアである。
そして、1987年にシーカヤックと出会ってからの私には、アウトドアが日本列島を取り囲む海へと必然的に変化していった。海は日本にとっての四囲の外界である。つまりは環境そのものであり、シーカヤックによって私のアウトドア観が、沙漠から海へと徐々にシフトしていった。日本列島に暮らす限り、アウトドアは海であり、環境もまた海であるというのが不文律になった。さらに、シーカヤックを始めとするカヌー世界のことを報告することが私の使命にもなっていったし、その使命を果たすという強い思いを育んでくれたのが、ラグビーだったことも意識していた。日本ラグビーが標榜する「ワン・フォア・オール、オール・フォア・ワン」という標語は、カヌーの世界に生きる上でも重要な言葉だったことを決して忘れなかったからだ。ちなみにこの標語は、日本のラグビー界だけで使われている言葉であり、元々は小説『三銃士』に書かれた表現。あのダルタニャンの物語である。
で、なぜラグビーとカヌーなのかというと、ポリネシア諸国のラグビーチームが、試合前に行なう「ハカ」という踊りというか儀式は、実はカヌーの世界から転用されたものである、というのがその理由。1976年、ハワイからタヒチまでの航海を、古代航法で再現したホクレア号は、タヒチで迎えられる際に、アオテアロアから馳せ参じていたマオリ族の人たちからハカでもって迎えられた。当時のハワイでは、すでにハカの伝統は消えていたため、ホクレア号のクルーたちは、「アロハ〜〜〜」としか応えることしかできなかったと、初代クルーの1人だったタイガー・エスペリ氏(故人)から聞いたことがある。
ハカは、カヌーが他の島に上陸する際、カヌーの出自や航海の目的を表わすための口上であり踊りだったと、タイガーは教えてくれた。その口上がないと、上陸もできず、時には戦いになることもあったんだろう。アオテアロアのラグビー代表であるオール・ブラックスのハカを、かつてはウォー・クライと呼んでいたけど、若干ニュアンスが違うのである。戦いの雄叫びというだけではなく、日本の武士たちの名乗りのようなもの。とはいえ、個人の名乗りではなく、カヌー自体の名乗りだという点が重要だな。上陸するためにカヌーの出自を明らかにし、上陸を許されるための儀礼として、感謝の気持ちがハカの口上には含まれている。単に戦いの雄叫びじゃないってところが重要だと私は思っている。戦わずに上陸するための儀式といった方がいいかもしれん。
ハカを日本語に置き換えると「鬨(とき)の声」だと解釈する場合もある。鬨の声ってのは、合戦の前に士気を上げる、いわゆる「えいえい、おー」のことで、戦いの開始を告げる意味もあったらしい。その鬨を「鯨波(げいは)」と書くことがある。鯨波は、鯨が起すような大波を意味しているけど、大勢の人々の叫びが、事態を好転させて戦いが始まることを止めることも、あるやもしれんのだ。「鯨波の声」と書くと、戦いのための雄叫びというより「鯨が起す波の声を聞け」といった意味にも取れ、人間同士の戦いや争い(つまりは戦争だな)なんて止めて、海からの声を聞きなさい、といった意味にも思えてくる。そうなるとハカに近い感じになってくるな。
さらには、ラグビーの試合が終わることをノーサイドと日本ではいうけど、英語では普通フルタイムである。ノーサイドということも時にはあるようだけど、ノーサイドは日本ラグビー独特の言い回しだと思っていい。サイドがなくなり、敵味方の区別がなくなるという意味では、フルタイムよりノーサイドの方が、より的確な表現であると、私も思う。
カヌーによる航海もまたノーサイドである。いや、最初からサイドなんかない、だな。海は敵ではない。海は味方でもない。カヌー乗りたちは、海に対して敵とか味方といった感情を持ってはいない。ましてや、海に戦いを挑むわけでもない。海と同化するカヌーがあるからこそ航海ができる。航海を成し遂げるには、まずは人がカヌーに同化できるような心を持つこと。カヌーを心から信頼する。カヌーを母のように信頼し、時には厳しく鍛えられ、時には優しく包み込まれることを繰り返す。母なるカヌーを介することで、海が持つ本来の意味をカヌー乗りたちは理解していく。それがカヌー航海の意義である。もちろん交易や移住といった目的もあろうが、航海を完遂するためには、海と同化するカヌーに自分も同化していくことが重要だと、私は思う。それが、カヌー航海から理解できる心持ちである。
そこで私が思い浮かべるのが沙漠である。サハラ沙漠という世界最大の沙漠があるが、サハラというのはアラビア語で沙漠を意味し、もっというと「無」とか「空」といった意味があるらしい。つまり、サハラ沙漠という言い方は、沙漠沙漠の繰り返しになるから、単にサハラと呼ぶべきじゃんという意見もある。さらには、サハラを「褐色の無」と呼ぶ日本語の意訳がある。サハラとは褐色の無という意味であると。そうなると、サハラと同じように海もまた無かもしれないと、私は強く思うのだ。海もまた無である。「碧色の無」とでも呼ぶか。
無ってのは、存在がないとか、なにもないといった意味だけど、万有を生み出し、万有の根源となるものという、とてつもない意味もある。インドの思想から始まり、老子などに説かれた考えで、西洋にだって存在していた考えであるといわれる。沙漠が無であるなら、沙漠から出てくる石油は、無の産物だ。海も無であるとするなら、海は生命の源なのだから、無は生命の源になる。無があるから有があり、万有の始まりが無になるじゃん。沙漠も海も無なのである。と、かなり哲学的だけど、そうなるわな。海は万有を生み出したのである。そうなると、海と同化していくという道には、海と一体になるということを目指しているような感覚があるな。
私の友だちには、海で亡くなった者が結構いる。大抵は見つかったけど、中には消えてしまった者もいる。人は海に消えることがあるってことだ。あの年の3月11日の大津波により、海に消えた人は多い。その数、実に2500人を越えている。海で亡くなることを「海の藻屑になる」といった表現があるのをご存知だろうか。「藻屑と消える」という表現さえある。船が難破したり、海戦で亡くなったりした人たちを、そう呼ぶらしい。藻屑?である。藻の屑となるということだ。屑などというのは、ひどい表現である。彼らを屑と呼ぶのか!彼らは、無に帰ったのである。
海に消えた人たちは、海という碧色の無になったのだ。万有を生み出す無になった。つまり、海に消えるのは、無になり、そして万有を生み出す存在なき存在になったということだ。海に消えた友は、いまだに私の中に存在しているのが、その証である。彼の無は、ワン・フォア・オールであり、彼の無からオール・フォア・ワンが生まれると、私は信じておる。
(2015.11.6)