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内田正洋 内田沙希 シーカヤックとハワイアンカヌー 海を旅する父娘の物語 photo by James Hadde

第12回 太古の、さらなる太古の時代へ

 前回、娘の記事が出てから半年近い時間が経過してしまった。実はこの間に、私(ワシと読んでね)と娘は、人生で最大の、ともいえる悲しみに襲われていた。私のカミサンであり、娘の母親であるヤーミーが突然亡くなってしまったからだ。クモ膜下出血だった。
 ヤーミーは山本昌美から内田昌美になった人で、ヤーミーというのは私が彼女に付けた呼び名。ヤマモトマサミだからしてヤーミーであり、当時彼女はヤマハのオートバイにも乗っていたので、それも引っかけてヤーミーと私は呼び始めた。もう33年も前のことである。
 ヤーミーは、日本女性として初めてパリ・ダカール・ラリーに出場した人だった。取材で2回、選手として2回、合計4回サハラを縦横断した。あのユーミンをパリダカに誘ったのも彼女だった。
 パリダカの経験を本に書き、それが世界的なアウトドアメーカーであるパタゴニア社の目に留まり、パタゴニア社でデザイナーとして働き始めたのは、1987年。パタゴニア社がデザインに取り入れる日本文化の影響を除けば、唯一日本人としてデザインを担当した人でもあった。
 そして、長女の沙希を産むために日本に戻り、その後に次女も生まれ、彼女は二人の娘の子育てをしながら、四半世紀が過ぎた。その間、パタゴニア社も影響を受け、後に私も影響を受けたホクレア号に始まった古代カヌーの世界を、彼女なりに表現する活動をしていた。我が家は、ずっとホクレア号の影響下にある家族だったのである。
 彼女が制作したフジテレビのポンキッキやNHKのEテレで番組化された「ヤッポ島」の物語は、カヌーの価値観から生まれた物語。ヤッポ島に関する絵本もすでに3冊出していた。ちなみにヤッポというのは、ヤッポ島の挨拶の言葉でもあるのだけど、実はヤポネシアの発想から来ている。ヤポネシアだからこそ挨拶まで「ヤッポー!!!」なのである。
 娘の沙希が、高校を卒業してハワイに渡航することになった時も、彼女はたいして心配はしておらず、その冒険的な行為を応援していた。自分もサハラ沙漠への旅を繰り返していたから、母親にしてこの娘ありなんだろう。まぁ、私の血も受け継いでいるから、航海カヌーへの道は、必然だったのかもしれない。

 私がシーカヤックを始めたきっかけも、実はヤーミーだった。カヤックは彼女が私より先に始めていた。当時はシーカヤックがなかったので、いわゆるリバーカヤック。特訓してエスキモーロールもできるようになっており、カヤックの魅力を私に何度も伝えてくれた。そしてその直後に、私はシーカヤックの世界と出会い、本格的にのめり込んだというのが真相だ。私がシーカヤックに出会ったのは、カリフォルニア。1987年のことである。
 当時の私は、バハ1000というカリフォルニアの南につながるメキシコ領のバハ・カリフォルニア(カリフォルニア半島)をほぼ1日で一気に縦断する沙漠レースにも挑戦を続けていた。その距離が1000マイル。87年は2回目の挑戦をした年で、私は89年まで続けた(もちろんパリ・ダカールも同時にやっていた)。
 バハ1000のフィールドは半島だからして、三方が海なのである。沙漠と海という取り合わせが、私にシーカヤックをさらに魅力的な存在にするのは必然ではあるな。オートバイで沙漠を走り、海をシーカヤックで旅する。これぞ自分の生きる道だと直感していた。
 シーカヤックで海旅という世界に気付いた私は、かつて学んだ海、つまりは日本列島の海の魅力をシーカヤックならさらに感じられるぜと、すぐに閃いたのだった。バハを1ヶ月ほど旅し、日本に戻った私は、すぐに日本沿岸をシーカヤックで旅するのである。もちろん、ヤーミーとずっと一緒の旅だった。

 ヤーミーが亡くなって茫然自失の日々が続いていたが、4月になり再びとてつもない事態が起こった。私の実家は熊本市である。4月14日の午後9時過ぎ、熊本で大きな地震が起こったという一報が届いた。震度が7という。
 すぐに両親や従兄たちに連絡すると、みんな無事だったし、被害も大したことはないというのだが、私は胸騒ぎがして翌朝の福岡空港行きのフライトをすぐに予約し、朝早く家を出た。福岡空港を目指したのは、熊本空港が使えなくなるかもしれないと予測したからだ。それに、福岡空港の近くには母方の従兄たちが住んでいて、クルマを借りて熊本に入る方が確実だとも予測していた。東日本大震災の始まりを思い出していた。
 そして、15日の昼過ぎには、熊本の両親が住んでいるマンションに辿り着いた。案の定、高速道路も途中から通行止めになっていた。前日に倒れたタンスや食器棚を片づけ、夕方にはおおよそ終わった。とはいえ、エレベーターは動かず断水もしておりトイレ用の水をポリタンクで手に入れたりしていた。でも、後はもう余震だろうから翌日には帰ろうかいな、などと思いながら眠りについた。
 突然、身体が宙に浮き、激しい揺れで眠っていた私の上に襖が飛んできた。容赦ない揺さぶりが続き、すべての家具が動き続けているようだったが、何しろ真っ暗闇。すでに停電になっていた。最初は声も出ず、ようやく声を絞り出し、隣で寝ていた親父を呼んだが返事がなく姿も見えない。敷いてある親父の布団の上には額が落ちてきてガラスが割れて散乱しているのが分かった。よく目を凝らすと、隣の部屋のソファで親父は寝ていた。彼も最初は声が出なかったようだった。
 お袋の方は、別の部屋で寝ていたはずで、大声で呼ぶが返事がない。一瞬「やられたか」と思ったものの、懐中電灯を見つけ廊下を歩いていたらガラスが足に刺さり、慌てて引き抜きテープを貼った。
 お袋の部屋のドアを開けようとするが数センチしか開かない。何かがドアを押えていたが、大声で呼びかけたら小さな声で返事があった。やはりショックで声が出なかったようだった。倒れてきた書庫がソファに引っ掛かり、かろうじて隙間があり、そこで寝ていたからつぶされずに済んだようだった。開かないドアを渾身の力で押し、何とかお袋を廊下に出し、両親ともに靴を履かせ、防寒できる服を着させて玄関から出した。
 部屋は8階にあり、熊本の町が一望できるが、真っ暗闇だった。逆に火事が起こっていないことが分かった。深夜だったため、ほとんど火を使っていなかったんだろう。この揺れが後に本震になる震度7、マグニチュード7.3という揺れだった。大地震である。

 最初の強烈な揺れは収まったが、その後も強い揺れが続いていた。マンションが倒壊するかもしれないと思い、階段を使って地上に降り、クルマで避難できる場所へと移動しようとも思ったが、避難所に指定されているところには人が集中することも分かっていた。だから、本家の駐車場へと行くことにした。
 電話で連絡をとり、従兄たちもみんな駐車場へ集まることになった。20台分ぐらいの駐車場で、昼間は病院の駐車場として使われているけど、夜は誰も駐車していないからスペースがある。毛布やイスやテーブルを持ち出して年寄りたちが眠れるようにしたものの、揺れは続いていて寝るどころの状態じゃなかった。朝までまんじりともせず、揺れにおののきながら過ごしていた。
 翌日の夜は大雨の予報だったため、明るくなってから隣の玉名市にある従兄の店へと移動することにした。玉名はほとんど揺れていなかった。広いカラオケ店で、敷地が1800坪もあるから避難所としては申し分なかった。

 とまぁ、それから色々とあったものの、書くと長くなるのでこのあたりにするが、結局揺れは今も(6月中旬)続いていて、震度4や5弱といった大きめの揺れも続いている。本震で崩れなかった家々が、続く揺れによって徐々に崩れていき全壊となっていく例は枚挙にいとまがない。政府は熊本地震と呼んでいるが、まぎれもなく熊本「大」地震である。すでに2ヶ月が過ぎ、地震の終息はまったく予測がつかない。
 従兄たちは熊本市内に残っているが、年老いた両親は福岡市の避難住宅に疎開してもらった。親父はガンを患っており、病院の問題もあるがゆえだ。住み慣れた土地を離れる辛さは、身にしみて理解できる。改めて、この列島で生きる者すべてが覚悟しておかなきゃならないのが、自然災害への対応だと再認識した経験だった。しかし、あの揺れはトラウマになりそうだ。

 以上のようないきさつで、この数ヶ月の私は茫然自失を通り越した状態にあった。沙希は昨年末にニュージーランドから一旦帰国していたから母親の死に目に会えたのは、ある意味良かった。母親がいなくなった我が家に今も残り、太平洋へ戻れる目処はまだ立っていない。
 とはいうものの、我らが父娘は、今夏新たな海旅に出る。それは、3万年前の航海である。「へ?」とお思いだろうが、実は国立科学博物館が主導し、人類最古級の航海の再現実験を行なうのである。いわゆる実験航海だ。ホクレア号のポリネシア全域への航海は、まさにこの実験航海というジャンルであり、人類が太平洋へと乗り出していった最終段階であるポリネシア海域への拡散の具体的な方法を探る旅だった。
 ポリネシア全域とはハワイを頂点に、西端がニュージーランド(アオテアロア)、東端がイースター島(ラパヌイ)の大三角圏のこと。それらの島々へ、航海計器を一切持たず、しかも古代式のカヌーで踏破してきたのがホクレア号。日本へと航海してきたのは、その実験航海を終えてからのことだ。実験は成果を見せ、古代式の航海術が現代に甦ったことは、空間だけじゃなく時間をも旅する海旅の世界をまさに体現してきたといえるものだ。

 で、3万年前の航海である。太古のさらに太古の途方もない昔である。それは、人類最古といっていい航海だ。今の人類であるホモ・サピエンス(新人)が初めて海を渡ったとされるのは、4.5万〜4万年前のことだとされている。今の東南アジア付近なのだが、当時は最終氷期という寒い時代で、海が今よりもさらに浅く、陸地が今より拡がっていた。
 東南アジアあたりにはスンダランドと呼ばれる沖積平野の広大な半島があり、その南東側にはサフルランドと呼ばれる大陸規模の島があった。今のオーストラリアとニューギニアが同じ島というか大陸だったのだ。そのスンダランドからサフルランドまで、ホモ・サピエンスは海を越えて渡った形跡が残っていて、それが人類最古の渡海だとされている。
 最終氷期ってのは、人類の文化的に表現すると、旧石器時代が終わる頃だ。人類はホモ・サピエンスだけじゃなくネアンデルタール人(旧人)も共存しており、彼らもまだ絶滅していなかった。ネアンデルタール人には、海を渡った形跡が見つかっておらず、人類として初めて海を越えることができたのが、新人であるホモ・サピエンス。それも、わずか4万年ほど前のことだ。
 人類の渡海の始まりがスンダランドであり、そこからサフルランドに行った人たちがいたが、北へ向かった人たちも当然ながらいたはずである。スンダランドの沿岸を北上すると、さてどこに行くか。そう、日本列島へと近付いてくるのである。
 日本列島へとホモ・サピエンスが来るには、当然ながら海を越えなければならない。泳いで渡ってきた可能性がないとは言い切れないが、相当に困難である。ルートとしては大陸に近い対馬と朝鮮半島の間にあった狭い海峡(対朝海峡?)が考えられる。北の方では、北海道と樺太(サハリン)は大陸から伸びた半島(樺北半島か?)だった。その南に津軽海峡はあったが、今よりも狭く氷期であるから冬は凍るだろうから歩いて渡った可能性も高い。

 そうそう、当時は本州と九州と四国は、つながっており巨大な島だったから、列島はまだなかったわけだ。瀬戸内海は平野で、今の島々は山々だった。それこそ大本土島である。ナウマン象が闊歩していた。
 しかし、その南には海が拡がり、屋久島と種子島がつながった大きな島があり、奄美大島や沖縄島、宮古島、石垣島といった島々も、今よりは大きな島として存在していたことが分かっている。日本列島はなかったけど、琉球列島は存在していたというわけだ。台湾は島ではなく大陸から突き出た半島だった。
 で、そんな琉球の島々から、何と旧石器人の骨や石器などの遺跡が豊富に出てくるのである。特に、近年驚くような発見が相次いでいる。中でも重要なのが石垣島。新石垣空港を造っている最中に遺跡が出てきて、調査を進めると、人骨がどんどん発掘されて出てくる。今のところ2万5000年前まで遡っているが、まだまだ深いところに人骨がある可能性が高い。つまり縄文時代が始まるさらに1万年以上も前に生きていた人たちが、海を越えて石垣島へやって来ていたのである。白保竿根田原遺跡(しらほさおねたばるいせき)と呼ばれている。石垣島と西表島はつながっており、当然ながら海面からの標高は今よりも高い。
 この発見によって、台湾半島から西表・石垣島まで旧石器時代の旧石器海人が航海をしていたことはハッキリしたのである。可能性として3万年前まで遡ることも充分に考えられるから、私らは国立科学博物館の海部陽介博士と一緒にその当時の航海を再現してみることにしたのである。
 2016年は、7月にまずは与那国島から西表島までのテスト航海をやり、翌2017年は台湾から与那国島を目指すことになった。ということで、次回の連載では、娘も一緒に航海をするので、そんな話になるかもしれない。このプロジェクトの情報は、「3万年前の航海」と検索すれば、ネット上でたくさん出てくる。

(2016.6.17)

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