前回に引き続き親父が記事を書いております。娘は今(2018年3月)、太平洋上にいて記事が書ける環境にないための措置。彼女はニュージーランドから東へ向けて航海中で、昨年も行ったレコフ島(チャタム諸島)を目指す帆走ダブルカヌーに乗っている。なので、次回では色々と報告してくれる、だろう。
ということで、今回急きょ考えたテーマは、そもそもカヌーとは何ぞや、という話である。この父娘連載の根源的な話であるな。まだまだ一般的にはほとんど知られていないカヌーについて、少し深く言及してみようと思っておりまする。
さて、カヌーは英語だとcanoeと表記される。ドイツ語だとkanuですな。発音的には「カヌー」に近い。それがスペイン語ではcanoaになりフランス語ではcanoëになり、発音も「カノー」に近くなる。英語のcanoeはフランス語から派生しているのだが、元々はスペイン語。当初はkanoaやcano、canow、canaoua 、canoaなどと表記されていたが、16世紀になってcanoaという表記に落ち着いたようなのだ。
実はこの言葉、あのクリストファー・コロンブスが西洋に伝えたもの。呼び方も「カヌー」というより「カノーア」や「カナーア」に近いものだったようだ。
15世紀が終わろうとする頃、コロンブス率いる艦隊は、カリブ海に到達。そこで出会った現地のアラワク族の人たちは、大木を刳り貫いた舟を使っており、その舟を「カノーア」などと呼んでいたようで、それをそのまま似たような発音でコロンブスが西洋に伝え、それがスペイン語化した。さらにフランス語や英語、ドイツ語にも伝播し、カヌーとも発音するようになってきた。かつての日本の国語辞書にだって「カヌー、もしくはカノー」と書いてあったほど。カヌーは、カノーと表記してもよかったのである。
アラワク族のカヌーには80人も乗れるような、巨木を使って作ったものもあった。つまり、木を刳り貫いて作った舟が元来のカヌーで、それは丸木舟のことなのである。当時の西洋には、丸木舟がなかったので、彼らにとっては初めて見る構造の舟だった。
もちろん漕ぐための「櫂」であるパドル自体も西洋にはなく、そのカタチからしてピザを焼く際につかうヘラのようなものだと書かれてあったりした。また、カタチが小さな鋤(すき)(spade)に似ているため、小さな鋤を意味する中世の英語であるpadellやラテン語のpadelaという言葉があり、そこから今のpaddleという言葉が生まれたとされている。パドルは鋤だったわけだ。
英語では、丸木舟をあえてdugout canoeと呼ぶが、本来はカヌーそのものが丸木舟。ちなみに日本では丸木舟を「刳舟(くりぶね)」という場合もある。それこそdugoutだな。刳舟は、学術的な呼び方である。
ところが、カヤックのような、元来は皮舟(スキンボート)だったものまでが今はカヌーの一種とされている。カナディアンカヌーも、本来は樹皮のスキンボートだったが、まとめてカヌーになっている。西洋人にとってのカヌーは、自分たちの伝統にはない舟だったからまとめてしまったのだろう。彼らはカヌーを大雑把に考え、西洋の伝統になかったがために、新大陸にいたアジア系の人たちが使う舟のすべてが、カヌーになっていったのである。十把一絡げ、であるな。
コロンブスに続いて、今度は太平洋を初めて横断したマゼラン艦隊も、グアムやフィリピンあたりで帆走する舟に出会っている。その舟のことは、プロアという現地語で当初は報告していた。ただ、その後は次第にカヌーという呼び方になっていくのだった。
日本の舟は和船と呼ばれるけど、西洋の人たちから見ると和船もまたカヌーの一種になるが、実は和船というのは丸木舟から生まれ進化してきた正統的なカヌーである。そのあたりの本質が今の日本では一般的に理解されていないため、カヌーは西洋のものだという誤解がまだ根強く残っているんだな。でも、少々、いやかなり違う認識なのである。和船はカヌーなのである。
さらにつっこんだ話をすると、この「カヌー」という言葉、それが古代の日本語だった可能性が強い。この説は東京商船大学(現、東京海洋大学)で教鞭をとられていた故茂在寅男氏が唱えた説。私(ワシと読んでね)は、茂在先生の説を20年以上支持し、彼に師事してきたので、茂在説はもはや仮説ではなく定説だ!と近年は説明している。何しろ反論がまったくないからである。
茂在先生が気付いた「カヌー」が古代日本語であるというのは、コロンブスが西洋に「カヌー」を伝えた時代より、さらに800年以上も前の文献に根拠がある。文献だから文字に残された根拠だ。しかも、2冊もあるから驚く。で、そのひとつが「日本書紀」であり、もう1冊が「古事記」である。
日本書紀は720年(奈良時代)に完成した日本最古の歴史書。古事記はその少し前の712年に編纂されたもので、こちらが日本最古の歴史書になるな。まぁ、8年ほどの差でしかないけど、どちらもほぼ1300年前の書である。
この両書(まとめて記紀という)に書かれているのが「軽野」なる語。伊豆にて作られた船のことをそう呼んだと書いてある。日本書紀などは「枯野」と書かれることもあるが、それは「軽野」の間違いであろう、とさえ書いてある。いずれも伊豆において作られた船の名前で、長さが10丈というから40メートル近い長さの船なのだ。そしてその名の軽野や枯野なる漢字、その読みが「カノ」となるのである。
伊豆の狩野川のほとりにある軽野神社は延喜式の式内社(最古の神社群)でもあるから1000年以上の歴史があり、実際に軽野を作った際に、この神社で祭祀を行ない、造船所もここにあったかもしれないとさえいわれる。
狩野の川に軽野の神社。川の方は今でも「カノ」と読み、周辺は狩野郷とも呼ばれていた。軽野は「カルノ」と読む場合もあるが「カノ」とも読む。伊豆にある天城山もかつては狩野山と呼ばれていた。狩野山は良材の山で、鎌倉幕府や北条氏などもわざわざ狩野山から木を切り出して寺を建てていたことが記述として残っている。近代では、明治8年に起工され、明治11年に就役した帝国海軍の軍艦には「天城」と名付けているが、やはり狩野山から切り出した材を使っている。カノの山に、カノの川。それにカノの神社。どう考えてもカヌー、丸木舟の呼び名としか思えないつながりなのである。
一方、古事記の仁徳天皇の条には、兎寸(とさ)河の西にあった巨大な木を使って舟を作り枯野と名付けたとも書いてある。兎寸(とさ)というのは、今の堺市の隣にある高石市の富木(とのき)と呼ばれる地のことだと民俗学者の故谷川健一氏が書き残していて、谷川先生は茂在先生の説も紹介している。その巨木で作った枯野と呼ばれる舟で淡路島まで当時の大王のための水をくみに行っていたという。その水場のある地には枯野の伝承さえ残っていて今は御井(おい)の清水と呼ばれている。
また、淡路島にはもう1ヶ所水場があり、そちらにも枯野で水をくみにきており、それは18代天皇とされる反正(はんぜい)天皇が生まれた際の産湯になったと書かれている。
そして、日本書紀が編纂された翌年の721年に書かれた「常陸国風土記」にも軽野が出てくる。この風土記は3冊目だな。今度は茨城県である。常陸風土記の香島の条には軽野なる地に大船が流れ着いたといった記述。軽野という大船が流れ着いたからそういう地名になったとも考えられる。それに下総と常陸との境界には安是湖(あぜのうみ)と呼ばれる汽水湖があり、その湖は軽野湖と呼ばれていた時代もあると江戸後期の文献「新編常陸国誌」に書いてあり、その池は現在の茨城県神栖市(現在の利根川河口部)にある神之池かもしれない。神之は軽野湖の名残かもしれないわけだ。神之はもちろんカンノやカノとも読める。また神栖市には、万葉集に刈野の橋で読まれたという歌があり、その歌碑がまた近くの軽野小学校にあったりする。軽野に神之に刈野、みんなカノでありカヌーである。
どうだろう、だんだんとカヌーなる言葉が古代の日本語から派生した可能性が感じられて来るだろう。文献であるから文字で書き残された世界最古のカヌー文献といっていいのが記紀、それに常陸国風土記や万葉集もそうなのである。
さて、ここからさらなる真相、いや深層に迫っていこうかな。まず、今の人類であるホモ・サピエンスが海を越えて日本に渡ってきたのは4万年近く前(3万8000年前か)のことだとされている。日本、いやこの場合はヤポネシアと書いた方がいいかな。ヤポネシアにサピエンスが初めて渡ってきた頃は、最終氷期と呼ばれる時代。今より寒く、海面が80メートル程度は低かった。当然ながら瀬戸内海はなく、本州・四国・九州・壱岐・隠岐島、屋久島、種子島などは同じ島で、巨大な島だった。彼らはもっとも近かった今の韓国あたりの大陸から来たのだろう。当時は黄海もないから朝鮮半島もなく、東シナ海は多島海だった。黄河の河口もヤポネシアのすぐ近く。対馬ももっと大きく、南北にあった海峡は水路のようなものだっただろうから、対岸に渡ってきた感じなんだろう。最寒冷期だった2万年前には対馬南側の水路も陸化してヤポネシアとつながっていた。
最初のヤポネシア人は、巨大な島をぐるりと巡りながら、今の伊豆半島あたりから、沖合に浮かぶ島(今の神津島)まで渡り、当時のナイフの材料である黒曜石を採取して戻っていたことが分かっている。往復しているから意図的な航海の最古の事例である。日本最古じゃないよ、世界最古の事例だ。距離的には片道30キロ程度か。
そして、最初のヤポネシア人が渡ってきてからさらに5千年近くが過ぎた頃(3万〜3万5000年前)、今度は南の方から新たにヤポネシア人となる連中が渡ってきたと考えられる。彼らは黒潮という強大で速い海流を越えるだけの術と舟を持っていた。それが、前回も書いた国立科学博物館でやっている3万年前の航海プロジェクトの実験である。
とまぁ、あまりに時空を大幅に飛び越え続けるのもなんだから記紀の時代に一旦戻り、その頃のカヌーの現物が出土しているか、である。実は結構身近にあったりする。私の住んでいる神奈川県の葉山町でもカヌーは出ていて、今は小学校の保管室に無造作に置いてある。記紀や常陸国風土記が編纂された奈良時代(710年〜784年)のカヌーで、舟底部だけの出土だけど、現物を見ると立派な丸木舟だったことが分かる。
奈良時代の前は古墳時代といわれ、その時代のカヌーだって日本各地から出ている。古墳時代は3世紀から7世紀にかけての頃。その前の弥生時代であってもカヌーはたくさん出ている。弥生時代は2800年ほど前から1700年前(3世紀)までである。驚く話だけど、日本は世界的にはカヌーの宝庫なのである。
そして、弥生時代の前、それが長い長い縄文時代。始まりは色々と言われているが、まぁ今から1万5000年ほど前に始まる。時代区分は縄文の草創期〜早期〜前期〜中期〜後期〜晩期となっていく。年代で書くと草創期は1万5000年〜1万2000年前。早期は1万2000年〜7000年前。前期は7000年〜5500年前。中期は5500年〜4500年前。後期は4500年〜3300年前。晩期は3300年〜2800年前頃となる。つまり、一言で縄文時代というけど、なんと1万2000年以上も続いた時代だ。途方もない長さである。弥生時代が最近のように感じるほどだな。そろそろ縄文なんて一括りじゃなく、細かく呼び方を変えるべきじゃないかと思うわな。
それで、縄文時代のカヌー。これもまたたくさん出ている。特に縄文前期は今より温暖化していて、海面が今より高い(縄文海進という)。海岸線には入江がたくさんあり、移動にはカヌーが便利だったはずである。だからこの時代、カヌー文化がかなり高度化したとも考えられる。入江が多かった今の千葉県では100艇ほどの縄文丸木舟が出土していて、先史時代(記紀より前の時代かな)全体のカヌー出土例は、トータルすると200艇にも及ぶ。その半分が千葉で出ている。
それで、縄文早期にあたる7500年前のカヌーが、実は最近(2014年だけど)見つかっている。千葉県市川市の雷下(かみなりした)遺跡から出土した。7500年前からヤポネシアには確実にカヌーが存在した、動かぬ証拠である。長さは7メートル以上、幅は50センチほどのカヌーの一部だが、全体を考えると相当に大きい。同時代のカヌーとしては、長江(揚子江)のすぐ南を流れ、潮津波(しおつなみ) [海嘯(かいしょう)、ボア]で有名な銭塘江(せんとうこう)下流域にある跨湖橋(ここきょう)遺跡から出土したものがある。こちらはもう少し古い8000年ほど前のカヌーで、おそらく世界最古の現物。でもまぁ同じ時代に同じカヌー文化が大陸とヤポネシアにあったことになろう。
ということは、カヌーを作るための道具も当時からあったわけで、そうなると九州の南さつま市にある栫(かこい)ノ原遺跡から出土した丸ノミ(鑿)型石斧が重要になってくる。この石斧は、いわば手斧(ちょうな)であり、世界最古のカヌー建造用工具とされているもの。何と1万2000年前の遺物である。跨湖橋遺跡より4000年も前のカヌーの痕跡である。
縄文時代が1万5000年前から始まるとはいうが、それは土器の出土からの時代分けで、カヌーの変遷による時代区分じゃない。編年がやりやすいから土器を使うんだろうな。土器が出る前の時代は先土器の時代とかいうが、先土器時代になると石器での編年になってくる。
また、縄文時代の前は、後期旧石器時代とか呼ばれていて、その時代にホモ・サピエンスはヤポネシアに渡ってきた。つまり、カヌー時代はそこから始まったかもしれない。先土器じゃなく「始カヌー時代」といった方が正しいかもしれん。
また、2003年には岩手県遠野市の金取遺跡から8〜9万年前の石器が出土し、さらに2009年には島根県出雲市の砂原遺跡から12万年前の石器が出土したことで、サピエンスのヤポネシア渡海はさらに古い可能性も出てきたが、まだ根拠が薄いらしい。この時代は中期旧石器時代といわれる。地質時代でいうと後期更新世の始まりの頃となる。どうもややこしい時代区分である。
12万年前というとホモ・サピエンスがヤポネシアに来ていた可能性は低く、これらの石器を作ったのはその前の人種だったのかもしれない。いわゆるネアンデルタール人系(旧人)であるな。ネアンデルタール人系がすでにヤポネシアにいたとなると、氷期に海面が低下して陸続きになっていた時代に渡ってきていた可能性もあろう。なかなかそのあたりは仮説が立てにくい。でも、4万年前は間違いなく陸続きじゃないし、初めて海を越えヤポネシアに来たサピエンスがいたのも間違いない、と学者さんたちは断言する。
サピエンスがサピエンスたる所以に、カヌーがあるかもしれない、と私は思っている。しかも、もっとも古いカヌーから、現在の原始的なカヌーを比べても、実はほとんど変化していない。単純に大木を刳り貫いただけである。もちろん、進化して変化してきたカタチもあるが、変化しなかったカヌーだってある。ということは、カヌーは、最初からカヌーだった!かもしれないと、私は最近思い始めているのである。そうなると、4万年前のヤポネシアへのサピエンスの到達は、カヌーを使っていた可能性があり、それが新たな仮説になるかもしれんと、私は3万年前の航海プロジェクトのメンバーに折りを見て吹聴していたりする。
じゃあ、その時代の石器で丸木舟が作れるのかどうかを、検証してみないとならなくなる。そりゃ難しいだろうと思われるだろうが、実はそういう研究をしている学者さんもいるのである。航海プロジェクトは、そこまで範疇にいれた実験をしている。
昨年(2017年)、実は3万年前頃の石斧である刃部磨製石斧という特殊な斧で、杉の大木を切り倒したのだ。この石斧、何と日本とオーストラリアでしか出土例がないもの。日本とオーストラリアといえば、サピエンスが海を渡っていった先である。ヤポネシアとサフルランドである。しかも、磨製石器としては世界最古のものでもある。他の地域ではまったく出ない石器なわけで、つまりは航海者たちの石斧だった可能性だって、ないとはいえん。
そして、さらにヤポネシアでしか出ない石器がある。それが台形様石器というノミ(鑿)のような石器だ。これこそが特殊な石器である。刃部磨製石斧で切り倒した杉の巨木。その杉を使って、今度は丸木舟を作る実験も今年は行なう予定になっていく。台形様石器も使ってみる価値はあるな。
ということで、カヌーはなんとヤポネシア発祥といっていいほどに我々日本人にはゆかりの深いものだったのである。私ら父娘がカヌーにこだわるのはそういった深い事情があったのである。それは、これを読んでいるあなたにも関わる事情である。ヤポネシア人はカヌー民族だったということである。
(2018.3.14)