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内田正洋 内田沙希 シーカヤックとハワイアンカヌー 海を旅する父娘の物語 photo by James Hadde

第29回 ソーシャル・コモン・キャピタルとウェイファインディング

 3万年前から始まったと思われるカヌーの実験航海というか実質的な探検が終わり、その成果から何が導き出せるかを考えていたら、いきなりのコロナ禍で世界が瞬く間に変わってしまった。
 そして、あっという間に実験航海から1年半が過ぎ、すでに2年近い月日が経ってしまった。いやはや、時の流れってのは、本当に容赦ない。このコロナ禍は、今の段階でも終息どころか収束さえ見えない。つまりは道が見えない。しかも、全人類が見えない道と対峙している。
 沙希はといえば、孫と一緒に一昨年(2019年)末にアオテアロア(ニュージーランド)に戻り、そのまま北島に滞在中。北島から出られない状態で、逆に島に入ることも難しい状況だ。この北島はマオリ語ではテ・イカ・ア・マウイ(マウイの魚)と呼ばれている。島ではあるけど元は魚だったらしい。孫も2歳になり、どんどん成長している。
 
 コロナ禍とかパンデミック(感染爆発、世界大流行)とか、新型コロナウイルスとも呼ばれる「SARSコロナウイルス2」によるCOVID-19なる感染症の疫病緊急事態は、これまで歴史でしか聞いたことがないような大災害になってしまった。まさか今の時代に世界中がこの疫病に侵されるなんてこととはほとんど誰も考えていなかったはず。これは震災でもないし戦災でもない。世界疫病災害。今を生きている人類の全員が初めて遭遇した事態であることは間違いなかろう。
 世界疫病災害だから「疫災」と呼ぶべきか。そして、この疫病には神様がいることを忘れてはイケナイ。そう、「疫病神!」である。このコロナ災害である疫災は疫病神の仕業なのである。世界の各国リーダーのうち、いったい誰が疫病神に取り憑かれているんだろか、である。きっと先進国だろな。こういう発想は、日本語の世界でしか分からんわな。

 またこの大疫災を、ウイルスとの「戦い」だ、といったようなことが言われているけど、ウイルスは人の細胞と共生したがっているわけで、戦おうとは思ってはいまい。感染した人が亡くなるとウイルスも亡くなるという共生関係である。まぁウイルスが生命体なのかそうじゃないのかもハッキリしない。また、細胞に取りついて人の意識を左右する存在かもしれず、そうじゃないかもしれない。ただ、今の人類であるホモ・サピエンス・サピエンスの登場より遥かな昔からウイルスは地球上にいた(あった?)わけで、何と30億年ぐらい前から地球に存在しているという。原始生命の誕生が40億年前とか38億年前とか言われていて、今の生命体のすべてにウイルスがいることも分かり始めており、ウイルスは生命に寄生するものじゃなく共生する一種の生命体として捉えた方がいいというような考え方も出始めているという。
 
 さらに病原体としてのウイルスだけじゃなく、ゲノムの解析からゲノムを保護する生命体としてのウイルスということも研究によって分かってきているらしい。つまり、ウイルスは単なる病原体だけじゃないってことだ。そういう観点からSARSコロナウイルス2を考えると、戦いではなく、いかに共に生きていくかを考えにゃならんという方向性が出てくる。
 実はウイルスについては、今の科学じゃほとんど分かっていないらしい。30億年前からいて、すでにすべての生命体にもいて、海洋だけでも10の30乗(0が30個だ!)といわれるような超々膨大な数のウイルスがいるといわれる。それに、宿主である様々な生命体を行ったり来たりしている生命体がウイルスなのだそうな。昔はビールスとも表記しとったな。

 人が生まれる時、ウイルスからの遺伝子が胎児を守っていることが分かったのは20年ほど前だという。しかもウイルスは、様々な生命の進化に関係する存在だという見方まである。生命にとっては、不可欠な存在としての生命体なのだ。そんな考え方もできるようだ。
 そうやって考えていたら、ウイルスは「自然」なんじゃん、と分かってくる。ウイルス=自然。だから自然に相対する考え方がないとウイルスとの共生ができなくなってしまう。敵にしてしまうと、無益で無駄で虚しい戦いとなっていく。つまりこの疫災は、自然と一体化するための活動となり、そうなるとベースとしては、アウトドア哲学、エコフィロソフィで考えなきゃならんくなるということだ。フムフム、少し分かってきたな。
 
 そして、社会的共通資本という考え方というか学問がここで出てくる。ノーベル賞にもっとも近いと言われた数理経済学者の宇沢弘文先生(もう故人)が唱えていた思想であり学問でもあり、ソーシャル・コモン・キャピタル(SCCだな)ともいう。
 宇沢先生は、1964年36歳でスタンフォード大学からシカゴ大学の教授になり(経済のシカゴ学派の中心的存在だったらしい)、今の新自由主義(ネオリベラリズム)につながる市場原理主義を世界に広めてしまった(レーガン大統領やサッチャー首相の政策に取り入れられた)ノーベル賞受賞者ミルトン・フリードマンの友達でもあった人(スゲー人だ!)。
 しかしながら、当初からフリードマンの市場原理主義への批判と、当時のシカゴにおけるベトナム反戦運動に巻き込まれたりしており、同時に急速にひどくなっていた日本の公害問題の解決へと進むためにキャリアを捨てて帰国したようで、シカゴ学派での中心的存在から東大助教授へと格下げとなったにも関わらず、帰国後は水俣病や成田空港闘争に積極的に関わった人だった。

 公害を「公害犯罪」と捉えた上で、環境、教育、医療といったものを社会的共通資本と呼び、そこを担う職人的な人々をベースにした経済体系を構築する学問に生涯を賭けた人。その経済体系による国家を作ろうとしていた。要はオルタナティブな、カウンターカルチャーに生きた人で、誤解してほしくないけど、リアルなヒッピー文化の先駆的な人のひとりだと理解すれば、私(ワシと読んでね)なんかは理解しやすい。晩年は、長い顎髭をたなびかせ、いつも走って移動していたという。彼はリアル・アウトドアズマンだった、などと私は思っている。
 
 そして、実はこの社会的共通資本(SCC)という考えを基礎にした国家方針が、コロナ禍から始まった新たな人類社会が目指す方向になると思えてきたのが、今回の話だ。国家の指針になるべきものといってもいいかもしれん。
 今や世界の指針は、SDGsという連合国(国連)が唱える目標に向かって進んでいる。SDGsはサスティナブル・ディベロップメント・ゴールズ、持続可能な開発目標だな。まぁ世界の目標だから内容はネットでいくらでも出てくるから今更説明はせんけど。
 このSDGsに必要な国家方針とは、それがSCCを論拠にした国家体制でなきゃならんな、と思い始めた。それに、日本国憲法が個人(国民)を重視して構成されていることを考えると、まずは日本という国家よりも、個人を重視した政策への転換が進められるべきだと思うのである。
 国家を重要視するか個人を重要視するかは、日本の場合は国民主権だからして明らかに個人重視でなきゃならん。基本的人権もそうだ。その上で平和主義になっているのが日本国憲法の理念。条文の文言には変更の余地はあろうけど、基本理念はまったく変える必要はなかろうし、これからの世界にこそ必要な理念だと強く思う。何しろ日本国憲法は、連合国(国連)憲章からつながる憲法だから当たり前なんだけど。
 
 そうなると、日本はこれからどういう方向に行くか、となる。私は、リベラルな保守という考え方をしている輩である。とはいっても、リベラルをどういう意味で使い、保守をどういう意味で使うかってところが重要らしいんだな。
 リベラリズムに対してリバタリアニズムという言葉がある。どちらも自由主義と訳されているけど、中身が全然違う。これも宇沢先生の言説から学んだこと。そこで、リベラリズムは社会自由主義、リバタリアニズムは自由至上主義と訳せば少し理解できるかもしれん。
 
 宇沢先生は、経済学者でもあったから、外部不経済が公害を起こしたことも深く追求をされていた。外部不経済というのは、市場の外部で不都合なことが起こること。負の外部性ともいう。逆に正の外部性となると外部経済となる。最近は公害なる言葉はあまり使わず環境問題と呼んでいるけど、この環境問題を解決するには、外部性を負から正、つまり外部不経済をなくしていかなきゃならんのだ。それを解決する仕組み、それがSCC、つまり社会的共通資本という考え方。SDGsも社会的共通資本の考え方がなければ目標には到達しないということが明らかになっていると思えてきた。
 それで、何が言いたいかというと、コロナ禍という疫病神が起こした疫災によって全世界の人々の価値観が変わっていくのであるから、SCCをベースにした国家に、少なくとも日本はなるべきだぜ、と思うのである。SCCのベースには、まずは自然環境がある。自然環境の保全が最重要の課題になる。自然環境に寄り添って生きるという考え方は、日本社会が保守してきた文化だろう。

 そこで、保守というものを考えると、伝統や風習を守ることではあるが、正常な状態を保つことでもある。いわゆるメンテナンス的な意味。伝統や風習を守りながらも時代に即して正常化されていく必要がある。伝統は常に過渡期であり、永遠に過渡期であればこそ伝統や風習が永遠に継承されていく。
 つまり、自然環境を保全ではなく保守していくことが最重要だということ。そして、自然環境保守をする人々が必要で、それを担う産業、それが一次産業となる。農業、漁業、林業だな。これらの業種の従事者は、その業種の専門家であることは当然だけど、自然を保守するための高い倫理観がなければならない。金や儲け話に左右されてはいけないのである。市場経済ではなく、つまりは公務員化。しかも倫理観の高い農夫や漁夫や樵夫(杣夫)が重要な人材になってくる。言い換えると「職人」としての農夫や漁夫や樵夫だな。
 
 日本にはもっと公務員が必要なはず。今の日本はあまりにも小さい政府になり過ぎてしまっている。人口比だと、欧米の半分ぐらいしか公務員がいない。だから機能不全になっているんだろう。
 それで、SCCにとって次に重要なのは、社会インフラ。道路や交通機関、電気、水道、ガスといった類。この分野に必要な人材も職人だな。さらには制度資本もSCCとなる。教育や医療、司法に金融といった制度も外部経済化して職人が必要となるが、本来の制度資本を担う人たちは職人的な専門家であることが当たり前だった。先生という職業は、聖職とさえいわれていた。しかし、どこか労働者化したというか、うまく機能していないのが昨今の状況だろう。聖職者でもなく、労働者でもなく、さらには専門家でもないといった感じだ。最近の中央官庁の官僚たちの体たらくだって、見るに耐えない(政治家である閣僚もそうだけど)のである。ってことは、職人的専門家というのは、逆に聖職者的で労働者的で専門家的じゃなければならんわけだ。
 聖職者的ってのは、それが天職であると自覚した上で、しかも報酬が保証されていればそうなれるだろうし、労働者的であれば、働く時間に応じた報酬を認めてくれればそうなろう。専門家的になれるのは、その学んで実践してきた専門の価値を認められ、しかもリスペクトされていると感じる報酬があればいいわけで、それが制度資本を作るんだろな。この場合の報酬ってのは、何も金銭の多寡を問うのではなく、生きがいが持てればいいレベルとなろうな。職人的な専門家は、時間労働をするわけでもないし、ある意味「美」を求めて仕事をするからだ。真であり善であり、そして美を求める。この真善美は、人間の理想的な行き方を求めるということだろうし、仏教的にいえば「無我」なんだろうか。

 と、ここまで来たら、今の世界を覆っている疫病神が去るためには、これからの人間が何をすべきかを見つけなければならん。道を見つける力が必要になる。不要不急じゃなく必要火急でさらには必要持続の道を見つける力である。この道を見つける力は、実はカヌーの言葉なのである。英語ではウェイファインディングWAYFINDINGというのである。
 ウェイファインディングは、ホクレアに代表される航海カヌーのナビゲーションのこと。これまでの連載では伝統航海術とか古代航海術と書いてきたけど、正しくはウェイファインディングである。まだ英語の辞書にも載ってはいないけど、実は最近になってウェイファインディングというタイトルの本が出た。2019年に出版されたのだけど、その翻訳本が出たのが2021年の1月。タイトルは「WAYFINDING道を見つける力:人類はナビゲーションで進化した」という。著者はM.Rオコナーという女性ジャーナリスト。
 そして、さらにはまだ翻訳されていないけど「Wayfinding : The Art and Science of How We Find and Lose Our Way」という英語本も2021年3月に出版された。違う著者によるから内容も違うのだろうけど、日本語版のある方にはホクレアのナビゲーションの話が出てくる。沙希と一緒にハワイからタヒチまで航海したカラ・タナカ・バイバイヤンもインタビューされている。彼女の父親であるカレパは ナイノアたちの技術を紹介しつつウェイファインディングを論じている。と、書いていたら、カレパが亡くなったという連絡があった。カレパは私と同じ世代。惜しい男が逝ってしまった。とても悲しく、寂しい。
 もちろん、ハワイの人以外にも極北の民バフィン島のイヌイットなども出てくるが、面白いのは脳(特に海馬)の働きや、量子生物学で研究が進む渡り鳥などのナビゲーション能力と人類の能力との関係性だったりする。海馬は、ナビゲーション能力において重要な働きをしていることが分かってきたという。子供の頃にはまだ未発達で、使うことで成熟していき記憶の保存や空間認識ができるようになるらしい。ところが使わないと萎縮していくというのだ。
 つまり、コンパスという機器から始まったナビゲーションの世界ではなく、本来人間が持っているナビゲーション能力を理解していくことで、未来への道を見つける力が生まれていくのではないか? という実に大きな問いである。
 海馬は使わなければ萎縮していくから、GPSなどに依存して自力で空間認識をしなければ、海馬が萎縮していき、そうなると鬱や、アルツハイマー、認知症といった症状が出てくるという話さえある。ウェイファインディングを疎かにしてはイケナイのである、という内容だな。
 
 要は航海カヌーから生まれたウェイファインディングなる概念が、人間の本来持っている能力を表出させていき、未来への道を見つける力となるのである。
 ということで、ソーシャル・コモン・キャピタルとウェイファインディング。このふたつの概念によって、人類は疫病神の呪縛から逃れられるのである。やっぱりカヌーは、とてつもなく重要だということが、この1年半の自粛生活で理解できたのは、実に大きいことなのである。
 皆さんも、宇沢先生の本とオコナー女史の本を読むことで未来への道を見つけられるかもしれませぬよ。とはいえ、やはり海を旅しなければ分からんことかもな。

(2021.6.25)

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