2015年12月23日に、ブルース・スプリングスティーンの『ザ・リバー・ボックス:THE TIES THAT BIND : THE RIVER COLLECTION』が国内発売された。ヴォリュームにして4CDの音響に3DVDあるいは2BDの映像という、ボックスの名に恥じない、とてつもない量と質の大作である。
私とスプリングスティーンの出会いは日本の多くのファン同様、出世作となったサード・アルバム『明日なき暴走』のタイトル曲を耳にしたとき、75年秋だ。連載第2回『全米トップ40 その1』で述べたように、ラジオ番組『全米トップ40』で本格的にアメリカのヒット・チャートにのめり込んだのがちょうどその75年であり、毎週ランキングを通じて心に飛び込んでくる最新ナンバーにわくわくする高校1年生だった。「明日なき暴走」は、ただ、ヒットとしてはそれほど大きな当たりにはならず、最高第23位に留まっている。当時音楽誌は音楽専科とロッキング・オンを読んでいたはずなので、前後してそのいずれかでスプリングスティーンに関する情報を、より詳しく知ったと思う。
彼の存在はシングル・ヒット云々のレベルではなく、かのジョン・ランドウによる“ロックン・ロールの未来を見た。その名はブルース・スプリングスティーン”という有名な一節をキャッチ・コピーのようにして、いかにロック史にとって重要な才能であるかという喧伝がすさまじく、ビートルズもディランもストーンズも、そうしたたいそうなものは自分より上の世代の独占物と少々ひがんでいた若造洋楽ファンにとっては、“そんなすごい人と同時代を生きられるのか!?”と興奮した。シングル・ヒット最低2曲収録を条件としていたLP購入に、禁を破って踏み切らせたのも、そうした心境ゆえだったと思う。
「明日なき暴走」のやたらドタドタしたサウンドの、モゴモゴ言ってるヴォーカルが、ポップでキャッチーな洋楽ヒット好きにはそぐわない感じではありながら、サックスを構えたクラレンス・クレモンズに、革ジャン姿でギターを手に寄りかかるスプリングスティーンが描かれた、白地にモノクロトーンのジャケット・アートが印象深いアルバム『明日なき暴走』を、大枚¥2,500はたいて買った。すぐに何回か聴いた。まったくおもしろくなかった。私には洋楽をアルバムとして味わう許容や準備が、まだできていなかったのだ。
不遜にも、誰か友だちに話題のロックだとかなんとか言って売ってしまおうとも思った。だが、元来買ったレコードは売らない主義だったのでやめて、がんばって繰り返し聴いた。やがて霧が晴れるように、楽曲の輪郭がくっきりと見え始め、歌の核がしっかりと掴め出した。描かれているドラマが、訴えてくる心情が、そして叫ばれている魂が、この『明日なき暴走』というレコードに刻み込まれているのがようやく解ってきた。シングル・レコードのコレクションに終始する姿勢から、洋楽に対してちょっと異なるアプローチに導いてくれたアルバムとして、『明日なき暴走』やジャクソン・ブラウンの『プリテンダー』などは忘れられないものになっていく。
それからおよそ6年後の夏、私は人生で初めての海外旅行に出かけた。ラジオで洋楽を紹介する仕事を続けたいのなら、せめて洋楽の本場(?)となるアメリカぐらいは行っとかなきゃという、実はなんだかよく分からない半ば強迫観念のようなものに後押しされ、前年となる80年の夏をこれも人生初のアルバイトに費やし、『全米トップ40』の同僚だった大高英慈が誘ってくれた東京・三鷹にある精密機械工場に通って、排気ガス濃度を測定する部品に光透過用のガラスのパーツを接着する作業などに従事し、旅費を貯めた。
出発は1981年7月26日。帰国予定が9月7日というなかなかの期間の、もちろん限りなく金のない旅だった。きっちり1ヶ月後、8月26日夕刻、グレイハウンド・バスに乗り、2泊したメキシコ国境の街エル・パソをあとにして(この間に起こった相当様々な出来事については、またいずれかの機会に)、私はロサンゼルスに向かった。
80年10月3日にスタートしていたスプリングスティーンの“ザ・リバー・ツアー”は、81年9月14日までの日程の最終盤に差し掛かっていて、そのころまさにロサンゼルスに来ていた。
<後編に続く>
(2016.03.29)